ありえない場所に潜んでいた簡単には見つからないレベルの豪快なバグで、月ノ美兎の声が出なくなった。より正しく言うならば、彼女の声が出なくなったのではなく、月ノ美兎の出る配信で、彼女の声が放送に乗らないのだ。それは自宅での個人配信でも、事務所での配信でも他人の家でのオフコラボでも同じで。
事務所のエンジニアがどんなに手を尽くしても、配信に彼女の声はなぜか乗らない。スタッフ一同は頭を抱えた。これからの有料イベントや案件までには何とか解決しなければならない。エンジニア達はこの「月ノ美兎人魚姫事件」を解決するため総動員された。
一方本人はというと、彼女はバグが直るまでの間、声を出さなくてもよい「謎のみと」の動画を撮りだめておくことにしていた。スタッフの思う以上にしたたかな委員長であった。
「謎のみと」とは、月ノ美兎がエイプリルフールの際に出現させた存在である。バーチャル世界の垣根を超えて、現実世界に姿を現した彼女(?)は、全身肌色のタイツを着て肌を隠し、萌えアニメ調の金髪フェイスマスクの頭髪を刈り上げたものに、黒髪ロングのウィッグをつけ、月ノ美兎の制服コスプレ衣装を着ている、背丈がちんちくりんな生の人間である。
そして、その動画撮影の手伝いに呼ばれたのが、月ノ美兎と仲の良いライバーである剣持刀也だ。
集合場所は事務所前だった。剣持は席が三列になっている移動用の車、つまりはロケバスの中で、最初はなぜ僕が呼ばれたんだと思っていた。だが段々とこれはもうすぐ三年にもなる彼女との厚い信頼関係ゆえのことだと気づいてきた。彼女は配信が一切できない状態になりもうすぐ一ヵ月になる。精神的に不安定になっていてもおかしくはないし、丁重に接しようと決意した。
しかし。ロケバスに乗る前の出発時から「中身」を見せず、常時不気味なフェイスマスクをつけた彼女に無難な世間話を振るも、なぜか無言で返される。いや、着替えとか大変そうだからそのままで来ることは想定内として、人魚姫状態なのは配信の時であって、喋れるんじゃないの、今は!?
というか剣持は事前にメッセージアプリで月ノ美兎から「謎のみとの撮影をするので何時何分に某事務所来られますか?」としか情報を与えられていない。そこで「いいですよ、いけます」と即返事をしてしまった自分が悪いのかもしれないが、行先もどんな撮影をするのかも一切知らされていない。雲行きが怪しくなってきた。
首都高を抜けてずいぶんと車を走らせ、途中のサービスエリアでは彼女のためにソフトクリームを買って、やっとこさ連れてこられたのは海。とある港町だった。ここで彼女から、やっと計画書を見せてもらうことに成功した。
何枚もの絵コンテと準備物一覧を眺めるに、要は、漁船で謎のみとが大漁旗を振る画がほしいらしい。剣持は、もう一つの並走する船に乗り込み、そこからの撮影を任されている。これは僕じゃなくてご学友のほうが得意分野だろうと思いつつ、何だかんだオッケーを出すと作業は猛スピードで始まった。どうやら天気予報が急変したらしく、雨が降る可能性があるらしいのだ。
漁船のおじさんたちに挨拶をするのは剣持の役目だった。謎のみとは言葉を発さない。おじさんたちには月ノ美兎の方から先に連絡が行っていたので、撮影はすんなりと進んだ。
漁船で強風を受けながら、なんとか足を踏ん張り、彼女の身体と比べたらずいぶんと大きい大漁旗を一生懸命に振っている姿を、剣持はブレながらも渡されたカメラでなんとか撮影する。船酔いはしない。運動部ですから。何をやっているんだと正気に返ってはいけない。ただひたすらに彼女の勇姿を捉え続けた。
一時間くらいして、謎のみとの撮影はひと段落した。今回はこの港町にある小さな合宿所をお借りしていて、車でそこへ移動した。映像を確認し、少し休んでから夜くらいに帰るのだという。
お借りした小部屋で剣持の撮った映像にジェスチャーでオッケーを出したものの、相変わらず何も話さず、なんとなく隅の方で落ち込んでいる様子の彼女に、剣持刀也はこれだ、と思い立ち、隣に寄り添いとある教えを説き始めることにした。
「委員長、今のあなたはかつて恵まれていた自分の立ち位置が痛いほど分かるでしょう。でもね、それこそがあなたの始まりなのです。今の魂は早く前みたいに面白い配信をしたいという純粋な心で満ちていることでしょう。そんなに俯いて何が悲しいのですか? 悲しいということは、それはあなたが贅沢にも高望みをしているからではないですか? もう一度心に聞いてみてください。あなたはどんな配信者になりたいのですか? あなたは今、何をしたいのですか? 願いをこの僕に話してみてください。さあ……」
「願いだァ? いいからお前に黙っててほしいんだよッッ!」
とんでもない大声を出したみとは懐から取り出した銃を剣持に突きつける。剣持は微動だにしない。
「つべこべ言いやがって、この金持ちで世間知らずの気取り屋ッ、ピーターパン症候群ッ、弱ってる人間に付けこもうとする教祖まがいの詐欺師ッ!」
そう言いながらみとは銃を捨て、右アッパー左フックストレートワンツーを剣持に喰らわす。剣持は剣道部で鍛えた反射神経で見事にかわす。
金持ちで世間知らずの気取り屋だって? 確かに僕の家は恵まれてるほうではあると思うし、世間知らずなのは言うまでもないけど、気取り屋だって? どこがだよ! こんなに謙虚な人間他にいるか!?
ピーターパン症候群だぁ? 年を取らないという選択ができるのがVの魅力の一つだろうが! 僕が人としてまだまだ未熟な様子をいつまでもガワの年齢に甘えてるとでもいうのか!?
弱ってる人間に付けこもうとする教祖まがいの詐欺師だってェ? 付けこもうとなんかしてないよ! ただあなたが困っていたからその一助として一つの教義を提案しただけだ! 僕は何も悪くない! だから詐欺師なんかじゃないの! 親切心なの!
我を忘れた剣持はつい、パンチを避けながら本音をこぼしてしまう。
「……委員長、あなたが目指しているのは優しい表現を使えば『おもしろ女』ですがね、実際はどうです! 僕のね、ネットとか詳しくない同級生があなたのことを見たら、間違いなく『ただの狂人』と言うでしょうね」
「それはお前だって同じだろ!」
全力の、ストレート。またしても避けられて決まらない。
「僕、初回あたりの配信で既に言ってるんですよ、僕は自他共に認める狂人だって。僕が言いたいのはね、あなたは本当に狂人になりたいのかということなんですよ」
「うるせー!」
みとの全力ローキックが決まらず、空振りに終わる。
そこでうっかり。みとはバランスを崩した。瞬間、みとの小柄な身体を腕でしっかりと支える剣持。不格好なお姫様抱っこのような状態になる。
「あ、あんたには長生きしてほしいんだから、怪我でもされたら困りますよ」
「……は、腹立つ~!」
その後、謎のみと大漁旗動画撮影の翌日。バグは嘘のようにすっかり治ってしまった。
剣持は、人魚姫となった月ノ美兎が自分を撮影に誘ったのはきっと、ああいう言い合い、というか本音での喧嘩がしたかったからだろうと思っている。それは急な不可抗力で予定していた配信が全てできなくなったストレスのぶつけ先でもあるだろうし、僕があの時つい棘のある本音を言ってしまった時みたいに、何らかの大きな感情を彼女は浴びてみたかったのかもしれない。これは自分のいいように考えすぎか、と今のはなかったことにして、復帰配信終わりたての彼女に私用スマホのメッセージアプリで連絡を取ってみる。
「今暇だったら通話できます?」
「おけ」
返事はすぐに来た。
「あ、もしもし」
「どうしたんですか? 剣持さん」
「動画撮影の件なんだけど……」
「ああ、あの一件は、ごめん……」
「いやこっちこそ、強い言葉を使ってしまって申し訳なかったです」
「強い言葉? 普段からあんなもんでしょ」
「え? あんたを腕で支えた……あの一件も……謝ろうと思ってたんだけど……」
「そんなことありましたっけ? それって文字通りならガチでヒューヒュー! な案件じゃないですか、そんなの炎上しますよ!?」
「あれ、あ、こういうことか? 謎のみと! 出てこい!」
おもちゃの銃を撃った時の電子音が二発鳴った。これが返事、なのだろう。
「軽率にボディータッチしちゃって、その、すみませんでした。言い忘れちゃったなと思って」
動画サイトでよく使われる、子供たちが「イエーイ!」と歓声を上げる効果音が聞こえる。つまり「月ノ美兎」はあのことを忘れてしまっているが、「謎のみと」は覚えているというわけらしい。この効果音って、いいよって返事のつもりなのか?
「でも言われた悪口は全部覚えてますからね? 今からでもすべてに反論することはできますよ」
「オオーウ……」という落胆の効果音が連続で鳴る。やめてってことだな。
「あんたがどう思ってるかは知りませんが、僕は狂人のあなたが……割と、好きですよ」
まばらな拍手の効果音が鳴る。
「でも、狂ったふりをしてなくても、そこがまた素敵ではあると思うので」
スタンディングオベーションの効果音が鳴る。
「適度に休みながら、長生きしてくださいね、委員長」
効果音は鳴らなかった。代わりに鼻水をすする音がして、通話が一方的に切られた。
おわり