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suidosui_txt

suidosuiの小説まとめです (NSFWはここにありません)

ジェイドの切っ先(後編)

web再録している「ジェイドの切っ先」の後編です。
前編はこちら



 翌朝。僕が朝食をいつも通り抜いて、脳を覚醒させるための吸入器を使っていたころ。昨日のやすらぎ星に来たばかりの浮かれ気分は沈静し、この星の豊かさについて考えていた。
 僕の出身地であるぺょが台はこの宇宙に存在する地球を出発点として考えた場合の全人類の中で、真ん中より上くらいの富裕層が代々暮らしている。難関大学を出たことのある親は、生まれた子供に大学の存在を知らせることができるし、入り方も知っている。だから子供は大学に行く選択肢を取ることが多い。
 やすらぎ星は、かなり経済的な豊かさにバラつきがある。大学を出ていなくても、観光業が上手く行けば生活できるので、そのような親に子供が生まれても「大学へ行く」という選択肢があることを必ずしも示せるわけではない。子供は観光業で生活している両親を見て育つのだから、大学進学率は著しく低い。
 昨日のあの劇場だったら、話の上手い人たちはきっと地元の大学とか……に行けているのだろう。腕っぷしで勝負しているような人たちは分からない。ドリンクを作ったり運んだりしている人たちは……。こういうことを恵まれた立場の僕が考えるのはどこまで許されるのか、申し訳なく思う。でも、地元の友達なんかは大学に行っていない人たちとは話が通じない、なんて言う。常識や慣習、教養が別物なのだという。ということは、きっとすごく話がよく合った剣持刀也なんかはだいぶ高いレベルの教育を受けているに違いない。僕はただの工学を学んでいる大学生に過ぎないけど、一応入学試験のレベルはそれなりに高かったし、乗り越えたということが自信にもなっているほどだ。
 許嫁からメッセージが来ていた。
「何か思い出になるような写真でも送ってね」
[二十一世紀モデル都市の街並みの写真]を送信しました
「ホテルの部屋から撮影した」
「ごちゃごちゃしてて面白いね。今日の日程は朝が早いって聞いてたけど、まだホテルにいるの?」
「世界遺産へ行くのはやめたんだ。どう過ごそうかなと思ってるところ」
「そう。何かお土産にその街のアクセサリー買ってきてよ」
「わかった。今日はこの星の暮らしを見てみたいから、そのどこかで探す」
「楽しんで! ちなみに私、ピアス穴は空いてないよ」
 軽装で街へ繰り出した。端末を使ってマップを見ると、このエリアの区画がかつてのパリのように数字で分かれていた。今いる七区は繁華街を含む夜の街。昼間は静かになる。公共的なものが集中するのは一区と二区。主に人々が暮らすのは三区と四区で、一軒家や集合住宅が並ぶ。
 ニュータウンの開発のように山の斜面に住宅街を作り、さらにそれを垂直方向、つまり空の方向へ拡大している。山にできる変わった雲のような形で宙に浮いた住宅が、不気味で恐ろしくも感じるが、こういう垂直への拡大をする建築は宇宙ステーションの建築ではありふれたものだから、やすらぎ星だからこそ、自然じゃないものに対する違和感があるのだと思う。五区が小売店やオフィスといった昼間に人が集中する区で、三区と四区からは当然のようにアクセスがいい。僕はそこへ行ってみることにした。
 駅前にはよく目立つ広場があった。草木はなく、ただ透明な水晶が砂利のように地面を飾る。ベンチも噴水も水晶でできている。これが単なるプラスチックのアクリルではないのは、見ればわかる。記念碑にも水晶だけで作られた公園だと記されていたからそうなのだろう。草木が無いのに落ち着く。設計者のもてなしを受けているような気持ちになった。「禅」とはこういう心なのだろうか。哲学の授業では最後まで理解できなかった部分だ。
 少し歩くと、公園のすぐ隣に道場があるのを見つけた。道場というのは、肉体と精神を鍛えるためのジムのようなもので、かつてのアジア文化の一つだ。バンブー、つまり竹が垣のように道場の周りを囲っているため、中は見えない。部外者が立ち入る場所ではないらしい。稽古の声が聞こえる。ぱしっ、という竹の……そう、竹刀の音だ。哲学の授業で映像資料として見たことがある。フェンシングじゃなくて、そうそう、剣道だ。
 剣道では声を出さなければいけないと聞いたことがある。あやふやな知識だからよく分かっていないけど。しかし次の瞬間、あの忘れられない声がして、僕はそこから動けなかった。水晶は常に微小サイズの掃除機が綺麗に保っているらしく、その嘘のような透明さが僕の心を反射していた。
 この声は、剣持刀也とあまりにも似すぎている。憧れたファンが声帯の手術でもしたんだろう。なりきりの一環で稽古を始めたんだろう。水晶はもう濁ってしまった。何らかの意味を持つ水晶のオブジェに祈りを捧げる老女がいた。僕には関係が無かった。砂利はいくら蹴とばしてもすぐに輝きを取り戻した。
 気持ちを切り替えしばらく歩くと、純喫茶があった。古ぼけたように見せる加工を施してあって、別にそんなことはなくつい何年か前にオープンしたばかりらしく、そういうのをあまり深く考えなければ素敵な店構えだ。吸い込まれるようにして僕は入っていく。
「喫茶店のコーヒー」なんて、憧れの存在の一つだ。昔の文化に触れたらいくらでも出てくる「お決まり」。観光客らしく、見たことのあるものを実際に注文する。店内は埋まっていて、僕はラスト一席にやっと座れた。テイクアウトしてあの水晶公園で飲んでもよかったのだが、この店内の雰囲気をどうしても味わってみたかった。許嫁のあの人にも伝えよう。そうだ、頼まれていたアクセサリーはどうしようか。僕らの世代だと実店舗で買うのは結構緊張する。下調べをしておかないと……。
「甘いものもいかがですか?」
 意識が現実に戻ってくる。そうだ。注文をしていたんだった。
「ミニパルフェ、これです」
「かしこまりましたぶれんどほっとがいってんみにぱるふぇがいってんいじょうでおまちがいないでしょうか?」
 旧世代の電脳かと思ったら、そういう慣習だったらしい。いきなり呪文を詠唱し始めたから驚いた。
「……はい」
 注文した品が来るまでの間、マップでアクセサリーの店を探す。
 ああ、またあの人は。そういうことなのか? 僕がありきたりな観光のやり方を嫌っていて、そこで生きている人たちの営為を知りたがると分かって、わざとアクセサリーを買ってこいなんて言ったんだ。そうでもないと僕は観光客向けの接待を受けてそのままやすらぎ星を後にしてしまうから。
 許嫁にコントロールされているのか、面倒見がいいのか。よく分からない人だ。ただ、とびきりの美人だと僕だけが知っている。
「あの、相席っていいですか」
 凛とした声。息が止まりそうになる。剣持刀也が目の前にいた。え?
「え?」
「ああ、そうそう、お客様として来てくれましたよね、剣持刀也です。今日は休みで、稽古の帰りに寄ってみて……」
「ああ、え?」
 スポーツブランドのジャケットを羽織ってラフな格好をしている、剣持刀也そのものがそこにいた。親しみを込めた笑顔を浮かべている。
「……席が空いてないみたいで」
 ああ、ごめんなさい、二度も同じようなことを綺麗な君に言わせてしまって。もったいない気持ちだ。
「いやいやどうぞ、ここでよければ」
「僕、この席好きなんです」
 そうやって剣持刀也はテーブルと同じ高さの出窓に飾られた小さな人形を愛おしそうに眺めていた。うさぎときつね。紙でできた人形、折り紙だ。日本から世界に広まった文化の一つ。剣持刀也……ああ、日本の名前か。
「昔、知り合いがみんなこのあたりのエリアにいて。というか、このエリアは昔、かなり文化的に独立した島国だったので、知り合いといえばこのエリア内でできるものだったんです。政治的な事情や防災のために地形とかがだいぶ変わっても、このエリアは独特なままでした。少し前に知り合いはみんなやすらぎ星を離れて別々のやりたいことを始めにいきました」
「そうだったんですか。結構長くいるんですね」
 だいぶ広い範囲の歴史を思い出話として語っている。いわゆる「バーチャル」タイプの人間ということかもしれない。「バーチャル」な生き方というのが二十一世紀の初めに提唱された。簡単に言えばこころを別の肉体(人体を問わず動くイラストや3Dモデル、もっと単純でも可)に移行して別の「バーチャル」な存在として認めるというもの。それが拡大解釈されていき、しまいには政治的指導者の意志を移行したと名乗り始める者、犯罪を逃れる手段として使う者、とあまりにも「バーチャルな世界」は荒れていた。法の整備が追いつく前に誰もがその技術を得られる段階になってしまったのが一因とも言えるのだが。
「バーチャル」タイプの人間というのは、誰かの「こころ」を真似たり創造して生活している人のことだ。常にお芝居をして生活しているといった感じ。つまりこの利発そうで可愛らしい彼は剣持刀也という「こころ」を上の代から引き継いでお芝居してくれているということだ。こういう文化がまだやすらぎ星では残っているから面白い。
「どうかしました?」
「いや、別に」
 しかし「あなたはバーチャルですか」と問いかけるのはマナー違反だ。そこに存在しているのだから、仮想ですかと聞いたら嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないからだ。これが僕らの時代の倫理である。
「……その、この街が面白いなあって思っていたんです。やすらぎ星って素敵な観光名所が沢山ありますけど、僕の好きな二十一世紀の東アジア文化が残っているここはすごく居心地が良くて。日本文化なんか特に奥深いですし。あ、昨日のお話、面白かったです!」
「ああ、ありがとうございます。いつも最後だし、物販も始まるだろうから、みんな気楽に聞いてくれればと思っていたんですが」
「教養が豊かで、逸話を引用しながら話したりするのとか……とにかくすごかったです」
 店員さんが来て、剣持刀也は炭酸ジュースと季節限定のちゅるちゅるイチゴ盛り合わせクリームあんみつを注文した。
「ちゅるちゅるイチゴ?」
「品種改良されて定番になったイチゴの品種です。イチゴってご存知ですか」
「まあ、ジュースの形でならよく見かけるけど、どんな形してるのかは……思い出せないですね」
「ああ、ジュースに加工してから輸出する地域があるって聞いたことあります! 植物図鑑とかでは見たことないですか? 形は、円錐の底の円の部分にがくがついていて、お花が咲いた後に変形してイチゴの形になるんですが……。まあ、実際に見てみましょう」
 なんだか思った以上に心を開いてくれる。優しい子なのかもしれない。僕も追加でイチゴのムースとやらを注文してみた。
「ムースじゃ、イチゴの形は分からないですね」
「……ムースってどういう食べ物ですか」
「えっと、カットしてジュースにしたイチゴと牛乳……なのかな、あと、ゼラチンを混ぜてふわふわにして、冷やして固める……のかもしれない」
「あんまり家では作らないのですか」
「僕はあんまり。とにかくムースはゼリー……これも分かります……か、ああよかった、と似ていて、液状のものを冷やし固めるお菓子です」
 注文したものが全て揃って、テーブルは赤・ピンク・コーヒー色。差し色で食器のボーンチャイナの白。いい配色だ。今度の授業で使うプレゼンの資料はこの配色で行こうかな。
 実際にちゅるちゅるイチゴを見てみると、本当に食べ物なのか怪しい見た目をしていた。外側に二ミリくらいのゴマのようなものがびっしりと整列。それ以外は弾力のある赤いフルーツといった具合だ。
「甘さ・大きさ・風味。これらが品種改良によって格段によくなりました。旬の時期なので、ああ、やすらぎ星のこのエリアには四季があるんですけどね、まあ、今が一番自然においしく食べられて、たくさん収穫できるし、こういう食べ物のお店では必ずフェアをやります。僕はそのために稽古をきちんと終わらせて来たんです。席は全部埋まっちゃいましたけどね。ふふ」
「甘いもの、イチゴが好きなの?」
「べ、別に、好きだってよくないですか?」
「え」
「ああ、すみません。反射的に反応しちゃって。大昔、日本男児が甘いものを好むのは滑稽という価値観がありまして……」
 なんだかごちゃごちゃ言っている。
 それにしても、あまりにも気になっていることがあった。
「ねえ、剣持くん。どうして僕の席に来たの?」
 クリームあんみつの杏をスプーンに乗せて半分だけかじった剣持刀也はすっとプレーンな表情に戻り、そして企むような目をして言った。
「僕のこと好きだろ? なあ」
 挑発的で、堂々と、直接的な言い方をするものだから。
「好き……」
「きもちわるっ」
 もう、こんな言われたら誰だって溶けちゃうって! おい! 好きすぎて好き。好き。好き好き大好き。もっと好き。
「ええ、でもちょっと解釈違いかも……。好いてくれるのは嬉しいけど、僕のことは個人としては認識されたくないって気持ちがあるというかなんというか……」
「いざ僕に認知されたら黙ってどっかいくお客さん、昔からいたんですよ。実際、かなりこっちからは見えてるんですけど。お客さんの方が視野が狭くなっていて、自分と他人がこっち側にいてその奥に剣持刀也がいると思っているんだけど、僕からしてみれば僕を見に来ている時点で僕に関心を向けている人たちがずらりと並んでいて、その中でいい反応をしてくれる人はずいぶん印象に残ってしまいます。良くも悪くもね。だから君が楽しんでくれたのも、幕を引いた後の控室で思い出すくらい、僕の中では大きなことなんだ。嬉しかったから覚えていて、きっと僕のことを好きなんだと思ったからここに来たんだよ。昔の僕だったら恥ずかしくてやらなかっただろうけど、もうずいぶん長いからね」
 クリームと餡をスプーンに乗るだけ混ぜてシロップの水分を含ませて口に運ぶ。ゆっくりとその動作を続けながら、彼のペースで言葉が紡がれていく。僕にはもうこいつしか見えない。
「そういう営業だったり、するんじゃ……」
「営業とか僕やらないですよ。時間の無駄ですから。ファンサービスだったらあの劇場でお喋りを続けるだけでいい、目標にはそれで十分です」
「目標、それってなに?」
「君に分かるかなあ。まあ、お金は欲しいですけどね」
 喫茶店でそれぞれ会計を終えて、別れようとしたら進む方向が同じで、意図せずアクセサリーショップへ剣持刀也と一緒に向かうことになった僕。こういうの、大学に行く前のもっと若い頃にあった「偶然を装う」っていう分かりやすいアプローチじゃないか。ああもう、剣持刀也、彼は遠くにいるのか近くにいるのか分からない。
 当然のように僕の隣にくっついて歩く彼。アクセサリーショップは五区の地下に広がる巨大地下型ショッピングモールの中に何店舗かあった。平日なのになかなか混みあっていて、彼の話では通販に対応していない小規模な店舗も多くあるからだという。わざわざ実店舗で選ぶ楽しみを大切にしている人がやすらぎ星に残留した人々の中には多いというのもある。ガイドのように剣持刀也は僕のことを案内してくれた。
 大変なにぎわいで、はぐれないように僕らはお互いの服装を覚え、それだけでは足りなくて、しまいには服のそでを握りあった。これが営業じゃなかったら何なんだ。
「ピアス以外でアクセサリーを選ぶんでしたっけ?」
「……そうです。エンジニアで、服装自由だけど、座り仕事に支障が出るやつはだめかな」
「フェイクテールとか、腰につけるやつはダメなんですね」
「あー、あったなあ! ちょっと前にみんなつけてましたよね。アクセサリーに詳しいんですか?」
「本当は全然。関心もそこまでなくて。僕の基準でふつうにしてると野暮ったいくらいだから、お客さんが色々と教えてくれるんですけど、他の星の最先端の流行をいくつも聞いていると、結局どうすればいいんだっけってなっちゃいますね。いつまで経っても……二十一世紀の日本とおんなじだなって思います」
 数店舗を回ってみて、良い感じの価格帯の店を覚えてもう一度向かった。やすらぎ星で採れた天然石を使ったアクセサリーショップが一つあった。星間観光のお土産としてその星の石ころを持って帰るのは古典的でありきたりすぎるだろうか。だけどあの彼女なら、こういう分かりやすい解答をあえて、良心で、用意してくれている……ような気もする。複雑な気分だ。
 彼女は熱帯魚が好きだ。流線形が好きなのだという。ひらひらした形がないか、アクセサリーが等間隔に並ぶケースを眺めてみる。
「昔は男女の別がはっきりと区分けされていて、服飾なんかは特にそうで、身に着けている装身具でその区別がついたものですけど。いつの間にかアクセサリーは、主義主張のアピールというか、哲学を織り込むための器になりましたね。身に着けている本人はそこまで考えていなくても、『これを身に着けたいと思っている』ことの主張にはなっているわけですから」
 彼がよく分からないことを言いながら、言葉の終わりに手招きをした。手首につけるアクセサリーのコーナーだ。
「これ見てください。僕が愛する人に贈るなら、一つだけ綺麗な天然石が入ったブレスレットを選びます」
「どうして」
「愛する人が作業中に目に入るたびに僕を思い出してくれたら嬉しいし、首、手首、足首は特に露出される身体の中でも細い箇所だから……つけ狙う奴がじっと愛する人を見たとして、自然と目が行くでしょう。いらぬ期待をそれ以上抱かせないためにね」
 意外と束縛癖というか、愛する人を離したくないというタイプらしい。
「結婚指輪の慣習に似ていますね」
「そうかもしれない。なんか恥ずかしいな。ほらほら、指って大きさがあるから。サイズが合わないとまずいでしょう」
 そうだった。婚約者は小柄だけど手は大きく見えた。でも大柄な人ほど大きくはなかっただろうし、指が全体的に長かった気がする。メッセージで彼女の指のサイズくらい聞きだしてしまえばよかったのに。今訊いたらダサいかも。彼女の手首は骨が出ていて、でも触るとすべすべしていて、危なっかしい内側には血管が浮き出ているのがよく分かるのだった。
 彼女の血管の色。肌を介して見えた血管の色。紫だっけ、緑だっけ。どっちもだったかも。ケースから紫と緑のブレスレットを店員に出してもらって、デザインを検討する。立体的な細い流線形のシルバーパーツが連なって円を作り、一か所だけ天然石があしらわれたものがよさそうだ。しかし、どちらの色にしようか……。
「こういうデザインもあるんですねー。僕、人にアクセサリーを選ぶなんてそうそうないから分かんないんですけど……。これとか、磁力か何かで浮かんで繋がっててハイテクですね。婚約者さんはかっこいい方なんですか?」
「すごく仕事のできる人なんです。確かに、うーん、かっこいい。気迫のある人で、美しくて、余裕があります。かっこいいのを邪魔したくないから、可愛らしいデザインとか素朴なデザインはなしがいいかなって。まだ……心の距離があるのかな。彼女には彼女のありたい姿をそのまま続けていってほしいし、変えたいと思ったら彼女の意志で変えてほしい。僕が彼女を夢見る少女のような可愛い姿にするのは、まだ、そんな権利はない。許嫁とはいっても、資産とかの効率を考えての婚姻だからね……」
「ふーん。愛し始めているんですね。しらふで僕もまあ、こんなことを考えられるようになったなんて……」
 結局、迷ってこの五区で採掘された緑のほうの石を選んだ。石は正しくは翡翠といい、大昔には玉とも呼ばれて何よりも珍重されたらしい。権力者の遺体を玉を糸で繋げて作った衣で覆った画像なら、歴史の授業でも見たことがある。半透明で、よく覗き込めば向こう側が見えそうで、見えない。
 緑色が濃い他のは染色されているかららしいが、元のままのこの一品だって十分な緑色がある。炭素だけでできているダイヤモンドとは違って複数の鉱物が集まった組成らしい。だから、白の部分と緑色の部分は違う鉱物だ。吸い込まれそう、なんて言ったら陳腐だろうが、この色ができるまでの年月につい思いを馳せてしまう。
 そして加工も見事だ。完璧なしずくの形をしている。天から降ってきた水滴が、あの人の細くて芯のある手首を愛撫するような光景を夢想する。
 しかしこの色がまた、隣でもっと珍しい石の組成表を眺めている彼の瞳をよく想起させるのだった。
 ついからかって考えもなしに、
「君の目の色にそっくりだね」
 と言うと剣持刀也は、
「僕の瞳はこんなに磨かれていないでしょう」
 と表情を隠してそっぽを向いた。可愛らしい動作だと思った。その時は、の話だけど。
 地下街には屋台も出ていて、その場で作ったものを安価で提供していた。プレゼントをあの翡翠のブレスレットに決めて購入した後、炭火で野菜を焼いている店の前を通った。すると、空咳が聞こえた。
「大丈夫?」
「あ、僕、けほっ、大丈夫ですっ……。煙を浴びたのが久しぶりだったから……むせちゃって……」
 トークを売りにしているのに、喉が心配だ。僕は近くで喉にいい飴を買ってきて、彼に渡した。
「えー、どうも、ありがとうございます……。まさに、のどあめって感じの味ですね」
 困ったように眉を下げながら、笑顔で飴を舐めてくれた。ファンからのプレゼントを躊躇なくその場で食べてくれるなんてサービスがいいなあと僕は思っていた。
「もう僕は用事を済ませちゃったから、その、着いてきてくれてありがとう、剣持……さん」
「剣持とか刀也で、まあなんでもいいですよ。こちらこそ楽しかったです。あの、よかったらでいいんですが、あなたともっと話をしたかったから、もし暇なら……来ますか? 僕はこれから用事があって」
「よかったら、いや、ぜひ」
 地下街のある五区から六区へ公共交通機関を使って移動した。その間に僕らは、連絡先を交換した。アイコンが宣材写真じゃなくて藤の花の絵。プライベートの連絡先だ。
「六区に住んでるの?」
「ああ、住んでいるのはもっと別の所です。六区には大きな学校があって、その関係で本屋さんも多いので、本を受け取りにいくんです。あと勉強もしなくちゃ」
「六区の学校ってどんな所なの?」
「正確に言うと、僕はそこには通ってないんですよ。他のもっと古い時代に通ったことはあるけど、もう別物だと思います。たぶん住む宇宙座標によって違うと思うんですが、この星では上の学校に行くのはすごくお金が必要なので。自分で自習するようにしています。建物が完成してから入ったことすらなくて。どんな場所なんだろう」
「……僕がだいぶ世間知らずだったみたいだ。僕の出身地では基礎的な教育を受けた後に、ほとんどの人が大学まで進んで工学を勉強するのがよくある進路だから。福祉や支援とかはないの?」
「探したけど、なかったです」
 その表情からは、随分と苦労している様子が誰の目にも明らかだった。「バーチャル」であることも関係しているのだろうか。そのために劇場で資金を稼いでいるのだろう。だとすると、物販に積極的でないのは……彼のプライドや哲学が関係しているのかもしれない。
 この星では学歴ではなくて実力主義な一面があるのかもしれない。資格試験みたいなものがあるのか。だからこんなに自習を頑張って、大学へ行けなくとも実力で夢を叶えようとしているのかも。
 閑静な六区は学生街で、石畳がどこまでも続いていく。古い石造りのアパルトマンはカラフルで、ベランダの物干しロープから青と白のボーダー模様の下着がはためいている。一階を小売店、二階以上を住宅として使っている構造がデフォルトのようだ。
 ある一つの路地を曲がった所は古い紙の独特な匂いがして古本屋が並んでいるのだと分かった。デバイスを店主に見せながらやり取りをして何冊かの厚い本を受け取った剣持刀也は、重い本に反して路地を軽々と抜けていき、軽い足取りで坂道を登っていく。
「知り合いが家を空けている間、勉強部屋として使わせてもらっているんです」
 坂道の途中で曲がるとこちらもまた色とりどりの集合住宅が並んでいた。その中でも重たい印象の見た目をした深緑色のアパルトマンに入り、螺旋階段を上っていく。生体認証ではなく本物の鍵を使って扉を開けて、深緑色の壁紙が目を引く何部屋かある住まいへ入った。
 剣持刀也という名前から日本人と思っていて、ついフィクションにもよく出てくる和室にいると思っていたから、靴を履いたまま手洗いをしている姿がぎこちなく感じた。
 家具は白色が多く、出窓の枠も白だ。出窓には白くてまるいドームのような形の石に赤い目をつけて緑のフェイクグリーンを耳のようにつけたオブジェが飾られていた。どこかで見覚えのある表象だけど、工学ばかり勉強したせいで古い文化のことは忘れてしまった。深緑色と白で統一感があって、いい雰囲気の部屋だと思った。
 壁には絵画がかけられるレールのようなものが至る所にあって、しかしどれも全く使われていなかった。レールから下がるワイヤーが寂しげだ。
「絵や写真が好きな人が使っていたんですか」
「ああ、まあそうです。前に来たときはインディーズのサブカルなよくわからないやつがたくさんあって、気に入ってたみたいで出ていくときに一緒に持っていったみたいです」
「インディーズ、サブカル、へえ……」
 古い言葉だけど文化史の中で習った気もする。
「知り合いは名前に月を冠していて、いつか完璧なプランを立ててから月へ行くとよく言っていました。いつ行ってもあそこは何かしらのお祭りをしてるし、あの人はそれだけじゃなくてマニアックな場所にも寄りたいと思っていたらしくて。でも、いつまでたってもプランが出来上がらないから……僕が、とにかく見てきたらどう? って半ば追い出すような形で、この部屋を借りているんです」
「追い出して占有するなんて、剣持さんのことだからよほど口が回るんだろうなって思っちゃいますけど……。それにしても、広い部屋ですね。ここに住んでいるわけじゃないんでしたっけ」
「はい。勉強部屋として借りているだけなので、住んでいるわけじゃないですよ」
「もったいないくらい、いい部屋だと思うけどな」
 鍵の着いた本棚四つと机と椅子。机の上には文房具収納。食事をするためのテーブルとダイニングチェア二つ。あとは水回りがあるだけで、ベッドはどこにも見当たらない。彼は湯を沸かし、粉末飲料の種類を聞いてきた後に言った。
「ずっとここに籠って勉強し続けられれば、僕にとってはすごく都合がいい話ですよ。例えば、眠らないでデータベースに常時アクセスしてとか……ね」
 ぞくり、とした。彼はまつげを下げて、蒸気を浴びている。確かに、今は眠らずに活動し続けられる医薬品も開発されている。しかしそれは休養の機会を奪うことになりかねないから、厳重に管理されている。
「くすりとかじゃないですよ。まあ、多少の融通がきく仕事だし、僕はなによりも自由な身分だから。それでもずっと勉強しないといけないって思っています」
 可愛らしい花の模様が描かれたカップにそれぞれの粉末飲料が溶かされて、薄い不透明の桃色が剣持刀也、透明の緑色が僕だった。
「将来なりたい仕事とかがあって、勉強してるの?」
「いいえ」
 予想外だった。熱いカップに薄い唇を少しずつつける剣持刀也は表情を変えないで言った。
「僕は生まれつき人権がないようなものだったから、ずっと高校生のまま、十六歳のままなんです。僕がそれを選んでいるわけでもあるんですけどね。歳を重ねようと思えば一瞬で何歳にでもなれるのが『ぼくら』だから。でも僕にだって知りたいことがあるし、やりたいことがある。それはこの部屋を出ていった知り合いも同じでした。だから勉強して、もっと大きな目的を叶えたいのです」
 僕は一口も飲み物を飲めなかった。「バーチャル」であることを自ら言う人に初めて会ったかもしれない。その知り合いというのも恐らく「バーチャル」なのだろう。そんな僕を見て彼はまぶたを少し閉じた。
「なんて、夜の仕事の僕が言った言葉、真に受けないでくださいよ? んふふ」
 赤子が笑うのは庇護されやすくするためだ。彼はとても自然に微笑んでみせた。
 剣持刀也は人間ではなく「バーチャル」。つまりキャラクターである。
 かつて人類はキャラクターに命を吹き込んでしまった。新たなる原罪と捉える学派もあるくらい、重大な転換点だった。新人類の誕生はここだった。自動計算機の獲得は序章に過ぎなかった。
 キャラクター達に人権を与えるかどうかがとりわけ複雑な議論の的となった。つまり、キャラクターの声優が交代すれば人間で例えるところの「寿命が延びる」ような現象が起きてしまう。キャラクターのデザインが大幅に変更され、もはや原型をとどめず、それでも製作した者が同じキャラクターだと主張すれば人間で例えるところの「一つの人格に二つの身体」のような現象も起きる。
 国際的にこのような類の議論は白熱し、検討を重ね、結果的に部分的な人権が認められるようになった。自由に自己を拡張できる代償として、発言権が弱いのである。それは分かりやすく、投票権の制約という形で法に反映された。
 剣持刀也は、彼はつまりこの世界でいう劣等グループで、この時代になってもまだ人類とは認められていない。そこには明確な線引きがあるのだ。その状況を耐えるのが、どんなに辛いことか。キャラクターだって、嫌なものは嫌と言っていい。しかし、線引きがある以上そこから先へつま先を出してはいけない。
「まだ大学生のあなたが夜のお店にハマったら、こうやっていいように巻き上げられちゃいそうだから、僕が目を覚ましてあげますよ。あはは。ばっかじゃねえの? こんな作り話、信じちゃだめですよ」
 へらへらと笑いながら彼は言った。なんてことだ。彼への信仰がより高まった。
 僕は剣持刀也のしている勉強を少し見せてもらって、厚い本は複数の言語で執筆されていることが辛うじて分かるくらいだったからただため息をついていた。文芸なのか図鑑なのか学術書なのかも分からない。工学を中心に勉強してきたから、今と違う時代の複数の言語なんて到底分かるはずがない。夕飯は遠慮して、夕方くらいにホテルへ戻った。道程でため息を何回ついたか数え切れないくらいだった。
 ホテルで宅配された食事を腹に入れている最中にメッセージの着信があった。婚約者からだ。デザートが届いて食べ終わってからメッセージを確認した。
「(長文になります、ごめんね)友達と話していて気付いたんだけど、私ってあなたを先導するみたいにしてしまうところがあるでしょ? 気付いているかまだ分からないけど。今日のお買い物も、私があなたの面倒を見ないとって思っちゃって、わざと宿題を出してしまったの。ごめんなさい。旅行が終わったらまた話し合いましょう。……もしかして、こういうのも私が先導しているように感じるの? だとしたら本当にごめんね」
 いつもと違って、どう返事を返せばいいか分からなかった。ただ、それが救いでもあった。婚約者はいつも僕の面倒をよく見てくれた。でもこのメッセージには戸惑いとためらいがあって、僕に返事を委ねている。これは恋人同士の面倒なベタベタしたやりとりじゃなくて、真摯に相手を尊重した結果なんだろう。
「送信してくれてありがとう。君のことが好きになった。今までは一番合理的だから君が婚約者だと思っていたけど、大好きになった今じゃ君以外考えられない」
 熱意のままに文字をしたためて、送信。
「わ、びっくりした。お酒でも飲んだ?」
「君のために君を思って買ったプレゼント、必ず喜ばせてあげる」
「笑いすぎて仕事が手につかない! 休憩貰っちゃった。どうしたの? すごく楽しみ」
 メッセージを送信した後で、しまった、と思った。あれは君のために君を思って買ったプレゼントじゃない。明らかにあの時ショップで思い浮かべていたのはあの翡翠の瞳だった。
 流線形は確かにあの人好みだろうけど、色のついたアクセサリーをつけているところを見たことがないから「緑色」の意味は重大で、もし訊かれたらなんて言えばいい。こんなに婚約者のことが愛しいのに、渡すプレゼントが……翡翠の、ブレスレットなんて。
 ラッピングされた華やかな包みを手に取って、裏返しにした。もう一度表へ返す。ラッピングに附属しているカードに綴られているのは婚約者の名前。検索したらちょうどあのあたりの地域は古代から翡翠が産出されやすかったとあった。申し訳ない。ひとまずこれを理由にしよう。
 それより優先して考えないといけないのは剣持刀也、彼のことだった。どんなに科学が発展しても、疲れるものは疲れるし休むのも必要だ。彼の勉強部屋に行った後、僕はどんな形で力になれるだろうと思案していた。劇場で働きながら勉強も続けて、あたかもそれが普通のように振舞うけれど、僕が引っかかっているのは君の立場が元から低い所にあるという点だ。しなくていいはずの努力をしているんじゃないか。僕はこんなに正義感の強い人間だったかな。剣持刀也に惚れ込んでいるから色眼鏡で見ているのかな。そうだとしても、何かを。
 次にここに来られるのは次の長期休暇までそうそうない。あと今晩を入れないで一泊したら朝すぐに星を離れる。婚約者と剣持刀也の板挟みで、まず先に剣持刀也への思いに決着をつけることにした。
 自分の財産、つまり金、使える人的資源、物質的資源、すべて使ってでも剣持刀也の望みを叶えてあげる。そういう旨のことを交換したばかりの連絡先へと送って、少ししてからすぐに「なんですか?」と返って来た。ろくに説明もしないで、同意するなら来てほしい、そう僕は答えて日時を明日の夕刻に指定した。
 剣持刀也は待ち合わせ場所に秒単位、ぴったりの時間で来た。夕陽が差し込む竹林は道場の裏だ。人気もなく、助けを呼んだってやすらぎ星のポンコツ電脳ポリスならそこそこ時間がかかるだろう。
「会うならオープンな場所にするのが紳士的だと思います」
 暴力を振るわれたり何か被害に遭ってもおかしくない条件で、彼は来た。細身のパンツに白のシャツ。無防備なように見えて間合いが上手く、隙はなさそうだ。
「ごめんね、これ、プレゼント」
 僕は片手に提げた透明な袋から、薄く平たい箱を取り出した。これはついさっき地下街で買ってきたものだ。袋は地面に捨てた。
「受け取れるわけないでしょう」
 剣持刀也は危険を察知してさらに緊張感のある間合いをすり足でとった。
「じゃあ、開けるから」
 薄く平たい箱。剣持刀也は目を細める。蓋を開けると、幻覚だろうが、金属の匂いがした。
「ナイフ……?」
 僕はそれを箱の中に敷いてある紫色の布で丁寧に包んだ。箱を閉じて地面に置いた。空の箱の上に布で包まれたそれを置いて、二歩、三歩、徐々に離れた。
「プレゼント、受け取ってくれますか」
「ああ、どうも。劇場を通してだったら危険物だし受け取れないんですけどね。まああなたなら、特別よしとしましょう」
 僕が入る隙もなく、いつの間にか剣持刀也の手元にナイフが渡る。お行儀よく、両手で刃先を押さえるように持っている。
「君はきっとバーチャルな存在で、する必要のない努力をしていて、その状況を助けたいって思ったんだ。でも、ごめんね。……僕一人の力じゃ、きっと君を助けることなんてできないって、どんなに考えてもそうなってしまう。だからこそ僕はなんだってする。婚約者もいるけれど、君とあの人どちらを優先すればいいか分からなくなっちゃってるってことは、あの人には少なくとも不誠実だ。彼女と長い人生をこれから共にするのだから。バーチャルな君にとっては一瞬に感じるかもしれない百年弱を僕はあの人と添い遂げたい。でも、その前に君への気持ちを清算したい。勝手にそう思っている」
 なんて顔をしたらいいか分からないときの顔をして、剣持刀也は話を聞いてくれた。
「嫌だったらナイフをいつでも振り下ろしていいから、話を聞いてくれると嬉しい。ほら、これでこの場における君の立場が上がった。君は太陽系中流階級の堕落した人間たちより……僕みたいなやつよりよっぽど頭がいいから、学校にさえ通えれば何にだってなれる。専門的で学際的な学びを得られるんだ。法律家でも科学者でも医者でも学者でも、作家や役者にだって。選び放題だろう。君は今のままでも才能に溢れていて、自己表現する場もあるけれど、自分で読み書きや思索に耽ることもできるのだろうけど、もっと大きな規模でやってみてほしいんだ。つまりね、僕がお金を全部払うから僕が地元で通ってきた学校に行ってみないか。木星の衛星イオ『ぺょが台』。清潔でいい街だよ。僕は君が人生をもっと楽しんでいる様子を見ていられればそれでいい。予算が足りなくなれば僕の学費をあげる。それで婚約の条件が叶わなくなったとして……別にいい。あの人にはあの人の素敵な人生が何通りだってあるはずだから。だから、ほら、さあ!? 僕が死んだっていいから、君には幸せになってほしくて、だから僕のもとに来てくれないか!」
 いつの間にか僕らは随分と近づいていた。あと一歩踏み出せば相手にぶつかってしまうくらい。
 真面目で可哀想で、健気で、愛しい。
 僕は剣持刀也の頭を撫でようとして腕を伸ばした。そしたら、手で強くねじるように払われ、僕はバランスを崩す。護身術の一つだろう。竹林の笹が敷きつめられた地面に無様に転がった。頬かどこか、顔に笹の葉で切り傷ができている。それでも彼のことを目で追うことはやめられなくて、「瞬間」を見てしまった。
 剣持刀也は薄いナイフをまっさらなシャツに突き立てた。こちらを見て歯を見せてにやりと笑う。溶けかけのアイスクリームにスプーンを差し込む時のように、スムーズに。刃先が胸にしまわれていくように。いちご香料の甘い香りがした。微弱に発光する緑色のどろどろとした液体がシャツに染みを作る。
 少しだけ痛いのを我慢するような顔をして、剣持刀也は言った。
「気安く触るなよ、ヒトカス。それがマナーというものだ。僕は冥王星の裏側の、オールトの雲の、もっと先を目指してるんだ。太陽系ごときで知ったかぶりのヒトカスなんかじゃあ絶対に行き着けない場所へ、僕は行こうと思う。法律家・科学者・医者・学者・作家・役者。全く僕の夢には釣り合わない旧式の役職名だろ。誰かの力は借りるかもしれないけど、ヒトカス、お前が差し出すような資源じゃ足りないんだよ。国家予算規模でも足りない国はごろごろあるだろうね。でも僕は行きたいんだ。宇宙まで。誰にも媚びずにね」
 血液の代わりに微弱に発光するこの液体を体内に入れているのは、かつてアンドロイドと呼ばれたヒト型ロボット。彼らの肌の中では液体が赤く皮膚を染め上げるが、かすり傷ができた時などは急激に凝固してもとの皮膚と変わらない見た目を作り出せる。優れものの液体としてこの緑色のスライムは開発された。このようにナイフで胸を裂けば、出血量から逆算して廃棄されたと判断され、いとも簡単にリサイクル可能なスライムに変化する。
 機械仕掛けの人形は空想科学の世界から現実に飛び出してきたのではない。人類は自らの生きる手段の一つとしてアンドロイドという形を選べるようにした。つまり、二十一世紀以降を生きていた人の多くが自身の、そして子のアンドロイド化を選べた。しかし当然のように拒否反応も強く、アンドロイドは絶え間ない差別から逃れるために人類とそっくりに改造、つまりメイクアップしていった。人類の身体の仕組みすべてが解明されたわけではなかったが、アンドロイドもまた、自身の身体の仕組みを理解できないくらい、複雑な生命体が誕生した。
 寿命についての進歩として、バーチャル化するかどうかを選ぶこともできるようになった。魂を遠い未来まで残すことができると分かっても、いつまでも自我がこの世に残ることを望まない人のほうが多かった。決められたライフサイクルをこなし、短く喜び、すぐに死に絶える存在。医学の進歩で寿命は伸び続けたが、多くの人間は自分の身体を物理的に、精神的に、社会的に制御して、短命を選んだ。百歳くらいが飽きが来なくてちょうどいいらしいから、みんなそう設定しているし、それに疑問も抱かない。そうプログラムされた電脳だ。
 電脳は一人じゃ無力だ。かつての人間と同じだけど、電脳一人ぽっちで火を起こすことはできないし、布も織れないし、複雑なソフトウェアをゼロから作ることはできない。ものの力に頼ってしか生きられない。ついさっきまで僕は剣持刀也のことを「バーチャル」として振舞う人間だと思っていた。しかしそれは違った。彼はバーチャルな魂を持つアンドロイドで、僕よりずっと長生きするし、何でもできる。
 当然、僕は電脳だ。彼に資金を渡して飼いならすようなことなんてできない。愛玩することさえできない。それを分かりやすく提示するために彼は胸にナイフを当てた。象徴的行為。
「ああ、あのエリアの育ちなら、もう少しリッチな条件を提示してくれると思っていたけど、どこも厳しい情勢ですからね。試験的にやってみたんだけど。話の内容、もっと複雑で色んな引用を増やしてもいいのかな? それとも、もっとプロモーションに力を入れるとか? なあ、ヒトカスは……どう考えてる?」
 口コミで広まるのが圧倒的にいいはずだ。
「ああ、ヒトカスの考えていることなんて僕らバーチャルな上位存在にとっては単純明快だからね、無理して喋ろうとしなくても、考えていることなんて筒抜けなんですよ。口コミね。はいはい。また来てくださいね。もしくは君の提案してくれたように、感想を誰かに話してくれたら嬉しい」
 微笑んで彼はナイフを布に包んだ。いつの間にか彼の発光する体液が跡形もなく消えていた。シャツには染み一つ残らず、緑色のスライムはなくなっていた。地面に落ちたスライムは土になって、服に染みたスライムは繊維となって、それ以外は肌へ戻っていったのだ。
 僕は普段大きく感情がぶれないようにドクターから調節されている。だから、動悸が止まらないのも息が上手く吸えないのも腹の中が気持ち悪くて吐くことすらできないのもこれが初めてだった。横に転がったまま、慌てて鞄から取り出した吸入器で精神を沈静させた。
 電脳であることなんて、当たり前だと思っていたのに。
 こんなに自由で夢があって野心に燃える上位存在を前にして、僕は。
 吸入器を使うといつもより呼吸が荒いせいで空気の通る音がやけにうるさかった。ヒノキの香りもわざとらしい。
 翡翠色の瞳なんて嘘だ。池の藻が増えて濁った時のような目で剣持刀也は僕のことを見た。彼は何か言いかけて、口を閉じた。そして再び口を開いた。
「日が暮れてきたから寒くなりますよ。僕はずっと十六歳だけどあなたは違う。だから、本当に大切な一瞬のものを見失わないでほしい」
 池の藻が増えた理由をそこに知った。

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