池の藻が増えて濁った時のような彼の瞳をずっと僕は覚えている。
ステーションに降り立つと肌にぴりっと刺激が走るような冷たい風が吹き付けた。北半球は冬の季節だと聞いていたが、思っていたよりも首元が寒々しいからマフラーでも持って来ればよかった。
ここに来た人はみな、空を見上げるという。青の色水に白の絵の具を垂らしてかき混ぜたバケツのような遠い空が広がっていて、これを人類がデザインしていないこと(つまり自然)への畏敬の念が沸き起こる。機体の窓から写真を撮る乗客も多かったが、大地から固定されたこの星の空は絶好のフォトスポットらしい。
ここ、やすらぎ星は保養地として知られる。人類の居住地は千年前と比較して飛躍的に拡大した。太陽系のあちこちに巨大な宇宙ステーションを作り、快適で洒落た新品の土地に住むことが「憧れ」から「ブーム」へと変わっていった。人類の文化を堆積させてデザインされた「非自然な」大地。もはや、元の「地球」には昔ながらの暮らしを望む者か、何らかの理由でここに留まらざるを得ない者たちしか残らなくなった。
地球は観光地としてのブランド力を上げるため、交通系財閥によって「やすらぎ星」と改称された。今や他のガス系惑星を観光することもできる時代である。人類の出発点として象徴される岩石型惑星は休暇の際に訪れる定番の土地と化した。
木星の衛星イオの周回軌道上に存在する「ぺょが台」という地域で生まれた僕は大学で工学を学びながら適当に日々を過ごしていた。勉強は特に楽しくもなく、しかし簡単に落第するような高度なものでもなく、単調で中毒性のあるゲームをやったり、昼夜無数に配信される番組をだらだらと見て暇をつぶしていた。たまに友達と集まってだらだらできる合法菓子をむさぼったりはしたけれど、周りの大学生たちと比べたら明らかにマジメくんなほうである。
「ぺょが台」は人類の中でもそこそこ恵まれた生活をする人々が暮らしている。しかし職につくためにはある程度の勉強が不可欠で、職についたとしても日夜働きづめで苦労することも多い。もっと恵まれた人々は火星のあたりで好きなことをやり続け、好きな瞬間に死のスイッチを押す権利を得て暮らしているらしい。僕は会ったことがないから実在するかは分からない。だけどそういう人々への憧れをまとめた読み物とかはよく売れている。
やすらぎ星を観光するための機体に乗り換え、少し仮眠をとると二十一世紀初頭の文化が根付いているエリアに到着した。正確には根付いているのではなく、その時代を模した街並みにその時代を模した格好をした人々が歩いているのである。観光のために住民はそういう格好をしている。それだけで安い手当が払われるのだという。特に手当を気にしない若者たちは、当時のファッションと現代の流行を少しでもミックスさせようと着崩している。
当時のエンターテイメントは文化史を学ぶ上でもよく参照される。直近の時代だからこそ対比できる。二十世紀にとっての十九世紀。二十一世紀にとっての二十世紀。教科書で見たことのある慣習や文化が目の前で繰り広げられている。生きる教材だ。本当にそのまま再現しているかは分からないけれど。こういう人工的すぎるのはあまり楽しい見世物ではなかった。「自然」を感じられるはずのやすらぎ星でさえこうなのだ。観光のために用意された作り物の歴史を、木星と地球の距離を考慮することで、さも苦労の末に目の当たりにしているような気がする。周りの観光客ははしゃいでいたり写真を撮ったり。楽しそうで何よりだ。
何もかもがデザインされた世界における居心地の悪さは、何に触れても本物ではないように思えることだ。経営者が今後のために従業員の苦労を体験したいと思って現場の労働を代わっても、何もかもあつらえられたら不満だろう。わがままの行き着く先は本物志向で、その先には「本物ですよ」と「人工物」を持って営業スマイルを浮かべる経済学者が……。頭が痛い。まだまだ資本主義と呼ばれるものは健在らしい。
観光のための路地を抜けて、端末の警告音を無視して進んでいく。大学の友達から噂で聞いていた面白い場所がこのあたりにあるらしい。かつての劇場のような見た目の施設がある。そこでは地球に残ると決めた人類の子孫が働いている。
彼らにとって観光収入は重要だ。媚びを売るようなパフォーマンスを観光客に向けて披露し収入を得る。時折それは「ぺょが台」でも映像媒体として見聞きしていて、絶賛する友達の意見もあったが、大多数がそのパフォーマンスを見下しながら楽しんでいた。そうでもしないと生きられない人々。この星から何かの因果で離れられない人々。僕らを喜ばせるために様々な工夫を凝らして芸を披露する。
僕は悪いことをしていると自覚していた。僕も見下している側だ。たまの休みに人間の生々しさに触れたいと思ってやすらぎ星まで観光するなんて、暇な学生のやる悪趣味の一つだと思う。でも悪趣味を楽しんでいられるのも若さの特権だから、こういうのはもっと大人になってからきっぱりとやめよう。
重たい扉の前でガードマンがこちらを睨みつける。金属探知機とかそういう機械とは大違いで、生きた人間を目の前にすると背筋が伸びる。IDを提示し、危険言語の訛りがないかチェックされ、身体検査が行われた。こういうアナログな劇場はデジタルなネットワークを通さずにコンテンツを届けられる。つまりはステージの上の演者を、観客が眼球で捉え、耳で聴くのである。これは最低ラインの検閲をも逃れられることを意味する。そのため劇場は人類の文化圏において監査をくぐり抜けた一部の業態しか残っておらず、観光地であるやすらぎ星でもそれは変わらなかった。
扉を抜けて紙のチケットを買い、静かな廊下を歩く。長旅の疲れを癒そうと荷物の中から吸入器を取り出した。メンタルコントロールのためにこの時代の人々は常に携帯している。劇的な変化ではないものの、ゆるやかに気分が落ち着いてくる。僕の好きなヒノキの爽やかな匂いに気持ちが集中する。
突き当りの扉を開けると揮発性物質の香りがした。僕と同じような身なりをした上流階級の人類が集まり歓談する。誰もが片手にはドリンクを持っており、ここが分類としては飲食店として届け出られていることを意識させた。グレーな営業ということである。
ステージは簡素で段が置かれて幕が左右に引かれているだけだった。客席はバーカウンターから小さな立ち見用のテーブル、ソファに腰かけてゆったりと過ごせる大きなテーブルなどがあった。カウンターで飲み物を頼んで立見席へ。
三十分から一時間くらいのパフォーマンスが数分の休憩を挟んで代わる代わる進んでいく。歌や劇、スポーツ。ただのお喋り。パフォーマンスの間にこちらをからかうような素振りで気を引こうとする人もいる。銃の早撃ちなんかは腕に自信のある観客と対戦したりしていた。色恋をステージの上で再現するようなパフォーマンスもあった。明らかに性行為を模したダンスだってあった。ダンスの歴史を顧みれば、性行為を模していないダンスの方がむしろ珍しいかもしれないが。こういうのは電波に乗りにくいから珍しいと感じた。
はるばる来たものの、こんなもんなんだな、と僕は思った。最初から真面目に見なくてもよかったかもしれない。友達が熱っぽく語るのも少し分かるけど、そこまで惹かれなかった。今日見たものは見下すほどでもない。こうして媚びないと生きられない人がいるというのも頭では分かるし、だからといってそれが面白いかと言われると微妙だった。退屈で、吸入器で気分転換をした。
もうそろそろいいかな、と思ったその時だった。
夜も更けて最後のパフォーマンスになった。客はだいぶ入れ替わっていた。端から出てきたのはひょろひょろとした若い人。ただ椅子に腰かけて、何をするでもなくゆったりと構えている。もう僕らの時代にもなると、かつての性差と呼ばれる概念は使われる地域と使われない地域に分かれているけど、この二十一世紀でいうところの「男子」に見える容姿をしていた。ここが二十一世紀を象徴した地域だからか、パフォーマンスをする人々はその時代の価値観をよく反映した容姿や言動だった。彼もその一人だろう。二十一世紀における日本やイギリスの学校でよく見るブレザー制服を着ている。
「どうも、今晩もよろしくお願いします。久々ですねえ。僕がやりたいと思った時だけやるんで。それにしては締めを任されることが多くて運営からの圧を感じますけど……あはは、そんなことないですから。運営さんは優しいですよ。そういえばそうだな、僕はずっと宗教をやってみたいと思っていて。一度、やったことがあるんですが、もっと面白くアップデートしてみたいです。今のこの星以外の技術力ってすごいし、生活に根差したネットワークにアクセスして、集団催眠とか、サイバーテロとかに手を出したいですよね」
こいつは何を言ってるんだ。整った顔立ちで倫理のかけらもないことを。ぎょっとした顔をしているのは僕だけではなくて、僕の周りの観客もそういう顔をしていた。ただ、へらへらと笑いながら飲み物を飲んでいる人々なんかは何も驚いていなかった。
「ここの劇場はある程度の言論の自由があるので、心配しないでください。どの宇宙区画にもこういう場所はあるのでね。苦手だったら立ち去る自由もありますから。話の続きなんですけど、催眠ってかかったことありますか? 僕は昔ねえ、お~おむかし、なんですけど、企画で催眠術にかかったんですけど、まあ僕は自己催眠は確実に存在すると分かっていたし、そう思っている限りはかかるだろうって思ってて。実際かかりましたし、なんか……気持ちよかったかな、あはは、変態みたいだ。同僚は苦しめられてたけど、僕は楽しませてもらっただけですね。そういう楽しい催眠だったら公共の電波で流しちゃってもいいと思うんだけど、どうだろ」
半年ほど前に電子工学の才能がある子供が有名人の顔写真をアイコンにしたアプリをクラスメイトの端末にばら撒き、面白がったクラスメイトが無線通信で増やし続け周辺地域に広がってしまい、全く事情を知らない被害者が警察に相談した件があった。有名人の顔がアイコンというだけの無害なアプリの増殖ではあったものの、戸惑いパニックを起こす人は一定数いた。だからきっと「楽しい催眠」なんてあったところで迷惑行為の一つとしてカウントされるだけだと思う。
「そう、その通りです。楽しい催眠だからって勝手に不特定多数に向けてやって、許されるわけじゃあない。じゃあ僕らエンタメ産業の生きる蝋人形がやっていることって何なんでしょうね。チャンネルをつけて偶然僕のことを見てしまったみなさん、いやあ、すみませんね!」
彼は僕のことをまっすぐに見て、そう言った。僕の考えていることがなぜ分かる?
目が合ったのは永遠に思えたけれど、本当はたった一瞬だけで、彼はまた違う話を始めた。劇場裏の小さな庭に好きなメーカーの椅子を置きたいだとか、冥王星のあたりから取り寄せた和菓子のこととか、銃のパフォーマンスをしていた人とオフで遊んだ話とか。とりとめもなく次から次へと。たまに観客と話しながら。あっという間に時が過ぎた。
もう僕は彼の虜になってしまって、それこそ催眠にでもかかったかのように、あっという間に時が過ぎてしまった。観客との掛け合いもあったけれど、サービスというよりもただ楽しいから話しているという感じだった。それがまた見ているこちらも痛快になるようなやりとりで、もう、早く地元の友人にこの人の話をしたくてたまらない。
「そろそろ僕の出番も終わりですね。今日は観光で初めてここに来たって方が多いのかな。木星あたりからの団体旅行の日とか聞いてましたけど。この後はね、物販とかあってその際に直接演者さんとお話しできたりするのでね、僕らの活動のサポートというか、応援したいって気持ちを形にできる機会だと思うので。ぜひ、そちらも楽しんで行って下さい! それではみなさん、いい夜を~!」
話している間に音楽が流れはじめ、楽しそうに飲み物を飲んでリラックスしていた観客から声が飛んだ。
「お前は物販ないのか!」
「ねえよ! 前も言ったろ! とっとと帰れ!」
苦笑いして返事をした彼は、一礼した後、椅子をきちんと持ち上げて運びステージから消えた。
「あいつが物販やらないのって損してるよなあ」
観客がぼやいた。
「何のためにここで喋ってんだろ。どっかのお坊ちゃんだったりするの?」
「お坊ちゃんの道楽でやるにしてはちゃんと面白いからなあ」
「普通にさ、昔から家が保守派で地球に居続けて、今さら離れられないとか?」
「ずっとこの星にいると資産は減る一方だし、こういう……観光業っていうの? これをやって人気者になって、最低限のいい暮らししたいんじゃない。一番ここがあいつにとって効率よく儲けられるだろうし」
「そういう価値観もあるか。まあそれにしては頭いいよね。知ってる言葉の量が多くてさ。ペーパーテストもできそうだし、機転もきくっていう感じ」
「そうそう、もしやすらぎ星出身って事情で、大学とか行けてないんだったらって思うと余計に金を落としたくなるんだけど。制服、コスプレじゃないらしいし高校生なんだよね?」
「は~。あいつなんで物販やらねえんだよ……。一番演者の利益になるのに……」
彼の名前が知りたくて、壁の黒板にチョークで書かれた演目リストに目を通すと、一番下の最後の時間帯のマス目に「剣持刀也」と漢字で書いてあった。
物販、つまりグッズを買うことができるのは、ラスト演者である剣持刀也のパフォーマンスが終わる少し前からだったらしい。誘導員に指示されるがままに別の部屋にいくと、少し広い部屋があった。そこでは既に机を挟んで演者と観客が楽しそうに話しながら、写真を硬く印刷した板やデジタルアクセサリーを受け渡している。さっきの黒板の演目リストによると、今日の公演を僕は全部ぶっ通しで見たようだが、演者のほとんどが物販をしていた。可愛らしい歌声のデータが売られているスペースくらいにしか興味はなかったが、とりあえず歩いて回っていた。人ごみはなかなか活気を帯びていて、これが楽しくて通っている人もいるだろうなと思った。机が並ぶ迷路をすたすたと進む。
何も置かれていない机が、そこにはあった。簡素な椅子に座るのは剣持刀也だ。目が合いそうで合わない。小さなサイズの書物を読んでいる。ときおり目を周りに向けて、興味なさそうに眉を下げ、再び真剣なまなざしで文字へ目を落とす。
そして意識もしていなかったほんの少しの時間。剣持刀也がこちらにひらひらと手を振った。目は笑っていない。感情が読めない。どういう意味、で、どうすりゃいい!
震える足で近寄って机越しに挨拶をする。
「こんばんは。来てくれてありがとうございます」
「……あ、あの、パフォーマンス、めっちゃよかったです!」
「ああ、ほんと! 嬉しいですね。もしかしてここ来たの初めてですか?」
「は、はい、そうで、大学が休みなので旅行で来てて」
「あはは。そうですか。ここって入場料だけだから、お目当てのものだけ見て帰っても別にいいんですよ。だから最初から最後までいるってことは初めてさんなのかなって。僕ずっと自分の出番が来るまで観客席をうろうろしてたんですよ」
たぶん、僕の挙動も初心者っぽかったのだろう。それは言わないでくれた。
「僕がここにいるのはね、劇場のルールというかカスタム、慣習みたいなもんですね。劇場でパフォーマンスをする演者はすべからく……全員、最後まで残って物販でファンと交流するんです。おひねりとかファンサービスの文化を誰もが罪悪感なく享受できるようにね。パフォーマンス中にもおひねりは投げられるけど、なかなかやりにくいって人も多いんですよ。そこでこういう会場を作って、お金の落としどころを作ってるわけです。グッズの価格に上乗せして活動を応援するファンの人たちもたくさんいますね。……とまあ、そういう文化がやすらぎ星には残っているんですよ」
そう言った後に、剣持刀也はゆっくりとまばたきをした。受け入れ難いのでしょう? というきらりと光る瞳。
「……あんまり、なじみのない土地から来たので。その、おひねりに対して。ちょっと抵抗が……」
「うふふ、無理にするものでもないし、分かりやすい応援の形だと思えばいいんじゃないかなと思いますよ。エンターテイメントですから、楽しい所だけつまみましょう」
彼は軽く笑って、僕の苦悩はどこかへ飛んで行った。
そして僕らはステージでのことについて話に花を咲かせて、笑顔で別れ、劇場を去った。ああ、このことも、ずっと忘れないようにしよう。そして地元のチャンネルではいつ彼のエンタメが見られるかすぐ調べないと、と思った。
劇場からホテルまでは徒歩で移動した。大通りの都会的でフラットなまぶしさを目印に、まっすぐ進み、繁華街を通ると近道だ。大通りに面した簡易レストランで食事を済ませて、繁華街へ向かう。ここを通らないとホテルに行けないから。
広告の進化というのはすさまじい。この何世紀かはそうだった。商品を覚えて貰うもの、商品の快適なイメージを前面に出したもの、一見して商品とは関係のない「アート」のようなインパクト勝負なもの、ただ煩わしいもの、不快なもの、粗悪なもの。
繁華街にはそれらがごちゃまぜで、性欲を黄金の太い文字で表現する店もあれば、マスターベーションを生活に必要な「くらし」として位置付けている、ラフで格好つけたイラストがあしらわれた店もある。やすらぎ星のやすらぎというのはここの繁華街だけを指していると冗談を言っても、現地にいる人にとってみればその通りとしか思えない気がする。面白い裏観光スポットだ。作り物じゃない人間の営為がちゃんとここに表れているような気がして癒されてしまった。
「お兄ちゃん、観光で来たの? わたしと遊ぼうよ。安い方だよ」
少女の姿をした性処理電脳か、もしくは本物の人間が僕に話しかけてきた。背丈は僕の胸くらいで、人間だったら間違いなく今は布団に入っている時間だろう。可愛らしく着飾って、媚びを売るような目つきでわざと気をひく。よく見ると対称ではない眉の形から、今では数秒で終わるメイクアップを自分の手でしたのが想像される。いわゆる「気持ちのこもったメイク」である。頑張ったのだろう。それすら電脳による策中かもしれない。
でも僕には地元に許嫁がいる。彼女は清潔で綺麗な人で、聡明なエンジニアだ。デザインセンスがあって、熱帯魚が好きで、そしてとても嫉妬深い。勘がするどく、コミュニケーションの先手を取られてしまうことも多い。こういう店の利用はしない、と彼女と約束をしているから、こっちを見てくる彼女を横目に通り過ぎる。華奢だった。手指の骨が浮き出ていて、静かに性欲が掻き立てられて、早くホテルに入って一人きりになりたいと少し思ってしまった。
繁華街を曲がった暗い路地の奥に目的のホテルがあった。学生旅行だから費用を抑えるために老舗高級ホテルはやめにした。それにこっちのほうがおもしろそうだ。
要は繁華街で「自由恋愛」をした人々が夜を過ごす場所である。しかし、観光客向けの格安宿泊施設として機能している面もあり、値段にしては洒落ていてサービスもよく、僕の金銭感覚でそこそこの一人部屋を選ぶともなるとだいぶ美しい部屋を独占できる。最上階から数えて三番目。自動階段の先を曲がった奥。
布団はふかふかにもしっかりめにも調節できるし、羽毛のような軽い布団も毛布のような重い布団も選び放題だ。冷蔵庫にはブランドものの冷水と炭酸水、そして試供品の化粧品や吸入器の新作カートリッジサンプルが揃っていた。広い窓からは夜景が一望できる。食事はいつでも作りたてのものが無人で運ばれてくるし、家具のネジ一つ取ってもぴかぴかに磨かれていた。
ベッドに入る時間になって、眠剤をいつも通りの量だけ服用した。ルーティンは完了したのに、何かやり残した気持ちになった。こんなにも快適で居心地のいい空間で眠り、明日は絶景・奇観を観に行く予定なのに。このままじゃあ絶対に不眠症の僕は眠れない。ナイトモードの検索デバイスで「剣持刀也」の名前を調べた。劇場から出ている宣材写真の他に、無断で撮影された写真や映像、インスピレーションを得て描かれたアートの数々。もちろんぺょが台での放送時間もブックマークしておく。
どの彼も綺麗だった。どんな彼も美しく、美しいものは汚したくなる。彼は可愛らしく、可愛らしいものは虐めたくなる。正しく発音される言葉が、音が、音素が、僕の耳にはまだ張り付いていた。礼儀と冗談の天秤が法の女神テミスを微笑ませる。表情の変化。書物を読む時の視線の鋭さも堪らないが、周りを見渡す時の子どものような顔も素敵だ。ステージの上で椅子に座って話をする彼は僕ら聞き手にとって案内人。彼が話をやめてしまったら、僕らは遭難してしまう。そのような意味で、僕は彼にその瞬間依存している。
明日は世界遺産を見ようと思っていたけれど、ヨセミテ国立公園も富士山もジャイアント・コーズウェイも剣持刀也に勝てるわけがなかった。確かに姫路城の機能美も、アマルフィ海岸の鮮やかさも、ランス・オー・メドーでアメリカに上陸した北欧の人々に思いを馳せることも、素晴らしい旅のプランではあった。
しかし、僕は若くて俗物的で、だから自分の好きなようにやることを優先したい。諸々のキャンセルの連絡を入れて、布団へ潜り込んだ。彼は、剣持刀也は、いつ眠りに落ちるだろう。そうしたら僕と夢の中で会えるかもしれないのに。ベッドで彼は、どんな表情を浮かべるだろう。どんな声で、どんな姿勢で。繁華街の少女のことは無視できたのに。たったあれだけの接触で脳が彼を優先するように動いていく。また検索結果の海に溺れていることにやっと気付いて、自分で自分に知っている限りの罵倒語を浴びせながら眠りについた。