何もかもを手放したつもりだったのに、大きすぎる家具のように動かないこいつは私のものになってしまった。シャッターが降りた住宅街の中にある個人商店。色褪せた看板の隅、桁の足りない電話番号のところが白く塗りつぶされていたのがこの店の歴史と終末を示していた。
母さんはこの店を一人で切り盛りして、私と弟を育ててくれた。父さんの稼ぎも合わせて大学まで面倒を見てくれて、私は無事に都心のオフィスで営業の仕事をバリバリ続けてきた。父さんはちょっと前に死んでしまった。ブルーカラーの力仕事な現場職だったけど、趣味は毛筆や生け花といった、不思議な人だった。父にとって東京のオフィスでバリバリ働く娘はたいそう満足がいったらしく、帰省するたびに言葉を尽くして努力を褒めてくれた。
しかし、もうその仕事はやめた。父の死がきっかけかは分からない。ずっと前からやめたいと思っていた気がする。恋人とも別れた。東京のタワーマンションなんて買わない。郊外で定時で上がれる仕事やって、もう子どもにも拘らないで、もうちょっと自由に生きたくて。この時代になんてロマンス考えちゃってんだろうとは思ったけど、レールをはみ出るには三十という年齢はあまりにもきりがよかった。それで、家族会議をしようと思って連絡したら寿司の出前なんか取ろうとしてたから、そんな浮かれた話じゃないんだよ、ってやめさせて、弁当チェーンの各々が好きなメニューを聞いて私が帰りがてら買って、実家に帰省。ここまでがあらすじである。
「すずらんをねえ、もうやめようとしてるのよ」
窓を見ながら母さんは言った。一番安いのり弁当を少しずつ食べている。すずらん商店という可愛らしい名前は母が好きな花だからそのままつけたのだという。半年ほど前から、もうシャッターが降りて什器には家のガラクタがはみだして置いてある。もうやめてるじゃないか、と思ったけれど、そういえば文具の大量注文なんかはまだ続けていると聞いていた。から揚げを頬張る弟は、
「お客さんいるだろ、やってけるくらい」
と不思議そうに言う。弟は実家でデザイン関係の仕事をしていて、ネットショッピングサイトの運営にも詳しく、この店が実店舗での営業を休止してからもよく手伝っていた。小学校や中学校、さらにそのPTAからの注文は毎年ここに来るのだという。
「あたしが疲れたのよ、もうじき年金ももらえるでしょ。駄菓子とカードゲームを楽しみにしてくれてる子供たちには悪いけど、大人の方からね、オーガニックとか、着色料がどうとか言われて、誰かこんな状況代わってくれるならいいんだけど。もうネットで文具まとめ買いのお店にしちゃおうかなって」
前は利発そうだったのに、自信なさげでしょぼくれた母さんに腹が立った。
「母さんが疲れてもう商店やりたくないなら、私が代わってもいい?」
「でも姉ちゃんさ、仕事はどうすんの。いっつもワーカーホリックじゃん」
「ちょうど離れたいって思ってたとこなの。それで今日集まったんだってば」
営業の仕事はとにかく正しく頑張った分だけ評価される。正しい方法で努力を続ければ、私の出身校くらいになら誰でも入れる。頑張った人が偉い。できないやつは社史編纂室へ放り込め。
もうそういうのが性に合わなかったんだと思う。一緒の大学を受験して私だけ合格した後、その時の彼氏とは既読のつかない「元気してますか?」でつながりが途絶え、私はそれをずっと気に病んだ。元から彼氏の偏差値で目指せる大学ではなかった。頑張った私はそこへ入学したけど、頑張らなかった、いや、頑張ってもできなかった彼はどこかへ消えてしまって、それもそうだ、そんな状態で私に話しかけるなんて無理なんだから。それを見ないふりして、人生を進めてきた。きっとこの時の彼氏以外にも見ないふりをした人はたくさんいる。だってそれが最短ルートだから。
うすうす気付いていた。決められたレールを勝手に想定して、そこを猛スピードでかけぬけていくのはうんざり。優等生だと褒められても、恋人にとっての特別になっても、私にはなにかが欠けていて、それが劣等感に繋がっていた。全部放り投げて、しばらくのどかな実家にいたいと思った。
もう少し、頑張ってもできない人と目を合わせて話せる生き方をしたい。色々な人にもっと出会いたい。ビジネスという言葉を介さないで付き合える仲間がほしい。世間でいう恋人のやるあれこれをひたすら真似し続けるゲームからは降りる。
「じゃ、お願いしましょうか?」
「ほんと、私やるからね、この店」
「マジでやるの。姉ちゃん頭いいけどちょっと抜けてるじゃん。無理に繁盛させようとして駄菓子撤廃してドライフルーツとか置くなよ」
弟が茶化す。
「あはは。ここは文具と駄菓子のお店なんだから、それはずっと続けるよ」
「そうだな。でもレールから外れるの、結構きついよ。分かってるだろうけど」
弟は昔から絵を描くのが好きで、ネットで好きなようにイラストを発表していたら段々と企業から依頼が来るようになったらしい。最初は評価のマークを稼ぎたくて始めたことらしいけど、依頼を自分が生きるための生活費だと認識するようになってからは大変そうだった。大学も上手く通えなくて中退している。酷いときは昼夜逆転して電話をかけてくるときだってあった。今はそこそこ安定して仕事があるらしい。健康管理もしっかりしていて、処方された眠剤を飲んで生活リズムを確保している。
「きついだろうけど、でもずっとわけわかんない茶番やらされるよりずっといいよ」
「そうだね」
「もう私は年金をもらって静かに暮らすおばあちゃんになるから、あとはあんたが駄菓子屋のおばさんになるんだよ。小学生からしてみれば三十歳はおばさんだからね」
「はいはい」
私が一番栄養バランスのいい弁当を食べ終わって、弟が仕事の続きをやるために茶の間から席を外した時、母さんから予測が百パーセント可能な質問がきた。
「結婚、どうするつもりなの」
「するかどうかは約束できない。もうあいつと別れた……のは知ってるよね。言ったもんね。するんだったら営業マンって感じの人は嫌だなあ」
「なんでよ」
「そういう人のヤなとこ、働いてきて知らないわけないでしょ」
「あんたは結婚しないと思ってるよ。誰とも。別にそれでいいよ。一生分の孫の顔を見てきたようなもんだし」
「そういうの呪いっていうんだよ。あはは、もっと怒られるかと思ってた」
「こっちは暇な仕事してるからそのくらいのことは空想していつも考えてるんだよ、はは」
「さみしくないの?」
「全然。あたしは女子短大を卒業したときがピークかな」
その後。私が営業の仕事を正式に辞めて、引継ぎ資料もすべて確認が終わり、引っ越しもして、店を継ぐ手続きをしている間に、母さんが亡くなった。まだ平均寿命でもない、持病もないはずだったのに、発作を起こしてしまった。まるでタスクを済ませて安心して逝ってしまったかのようで、弟と私はあまり泣かなかった。その代わりに、この店を絶対に続けようと約束した。
お店をちゃんと続けたくて、色々勉強したし、ネットショップのことも頭に入れた。そして、駄菓子やカードゲームといった子供の娯楽と、文房具という誰もが使う日用品の店としてすずらん商店は復活した。もうこの時点で、頑張ってもできない人云々のことは頭から抜け落ちた。ここからはずっと、子供達を定点観測する日々が始まる。
このあたりは住宅街で、すぐ近くに小学校と中学校がある。どちらも「第一」とついていて、大きくなったら道路を挟んで隣の建物に移るという仕組みだ。第一中学校のほうは学区を広く設定していて、第六小学校の子とかも入学してくる。私がいた時と変わらない。中学校になって、知らない人たちが知らないグループで固まってるから最初はすごくやりづらいんだったな。
すずらん商店が復活したばかりの頃は子供たちが大勢押し寄せて、てんやわんやだった。その中には私の母が亡くなったことを知っている子もいたから、時間をかけて噂話で真実は広まり、こちらが特別に何か言うことはなく最初の一年が終わった。
ある、冬の日のことだった。
店番をしているのはそんなに忙しい仕事でもなく、冷たい風がいやで早めに閉めようかとも思っていたころ。大人の男と小さな子どもが来店した。様子を見る限り、親子のようだった。子どもはふかふかのコートを着たまま、まくらのような……いや、まくらにしか見えない布の塊を抱きかかえて、片手がふさがっていた。ずいぶん幼く見えた。
「国旗の色ばっかり、すぐ無くなるなあ」
父親が文房具のコーナーで頭を掻きながら言った。子供は恥ずかしそうにもじもじと黙っている。クレヨンや色鉛筆はバラ売りもしているので、補充にきたのだろう。
「とうやは国旗、なんこおぼえた?」
「ひゃく!」
「おお、じゃあ、あとちょっとで全部だねえ。まあ、増えたり減ったりするからねえ」
本当に百個も国旗を覚えていたらすごいなと盗み聞きしてしまう。電車や工事車両が好きな一部の子供の記憶力はなかなかすさまじいものがあるかそうでもないと、なかなか多くの国旗を目にする機会はないものだ。うちで取り扱っている万国旗の飾りだって、せいぜい五十くらいしか国旗のデザインはなかった気がする。
電車や車が好きな子がいるように、この子もきっと国旗についての関心があって、それを親がサポートしてたくさん覚えられるようにしているんだろう。私も「祇園精舎の鐘の声……」とかの古典を何度も暗唱したことがある。確か、父が趣味の毛筆で書いたのを保育園のころに読んだら喜ばれて、部屋に印刷したのを次々に貼られていて……。ああ、だいぶ昔のことなのに、なんでこんなに覚えているんだろう。
子どもが父親から離れて、お菓子売り場に移動する。そんなに広い店じゃないから父親も気にしない。大きなプラスチックのボトルに入ったいかそうめん。当たりは串に赤い印のあるきなこ棒。色とりどりの飴。指先で擦ると煙が出るおもちゃ。舌に色がつく十円ガム。この子にはまだちょっと早いだろうか。
子どもは片手で枕を抱えながら、指輪の形をした飴にじっと集中していた。大きな宝石がついた指輪の形をしたキャンディーが色とりどりに並んでいる。そして……手に取った。こちらへ向かってくる。会計をするつもりらしい。さも当然のように会計を待っている。もちろん、それには応じられない。
「あ~、とうや、お菓子は今日はダメだよ。おかーさん怒るかも」
父親がすぐ気付いて、優しくなだめた。
「え……わかった」
聞き分けがよくて、でも視線はキラキラのキャンディーから逸らせないでいる。こんなに小さい子なんだから、このプラスチックの指輪はまだぶかぶかで持て余してしまう。
「おっきくなってからまた来てね」
私は言った。その子は顔をキャンディーから私のほうに向けて、一瞬だけ目を合わせて、すぐ下を向いて、
「はい」
としっかり言うのだった。父親は赤・黄色・緑のクレヨンを買って、子どもが「おせあにあ?」と言うのを聞いて慌てて青も買っていった。
たったそれだけの出来事だったけど、愛されて育っている子なんだなと思いを巡らせた。指輪のキャンディーは女の子のものだなんて決めつけもなく、のびのびと好きなことを伸ばす。人の家の子どもだけど、彼が愛されているということが本当に嬉しくて、元気でいてほしいなと思った。
そして同時に、親が自分くらいの年齢の時に子どもの興味を伸ばすようなことをしてくれていたことに気付いて、すごいなあなんて月並みなことを考えていた。
この店をやっていてよかったな、なんて少しだけ思わなくもない日だった。
また、ある日のことだった。夏休みが近づき、冷房のありがたみを感じる。今年からアイスは置かないことにした。冷やすための設備が古く、電源を食うからだ。その代わり、夏休みになったら冷やしパインでも売ろうと思っている。パイナップルを縦に切って、割り箸を刺したやつ。家の冷蔵庫で少数作って冷やしておこうか。評判を見ながら数は調整すればいい。
弟はもう三十になって、いつのまにかできていた気のいい彼女と結婚して、各駅停車しか止まらない駅の近くへ家を建てた。私は生まれ育った家にずっと住んでいた。
流石にまちの(子どもにとっては)一番知名度のある小売店とはいえ、キャラクター商品の種類は少ないし、何より一年ごとにキャラクターの変わる作品だと在庫を抱えられなくて困った。
駄菓子はメーカーが製造をやめてしまうともう店頭に並べることはできなくて、それを知った子どもが泣いたりする場面も何度かあった。よく心配の声が上がる着色料とかも何度も安全性を確認した。
ここでの仕事は都心で働いていた時とは違う感覚だ。物事を動かすのは自分じゃない、周りに流されながらどうにか生きるために知恵を絞る。お給料だってそんなにあるものではない。
ただ、こっちの方が営業の仕事よりずっといい意味で頭を使う。だから向いているかもしれないとは思った。
夕方、下校時刻から数十分経つと、わっと小学生が押し寄せる。入口をガラス張りに施工して、ボロの看板は取り替えた。自治体から子どもが危ない目にあった時に逃げ込めるお店であることを示すステッカーをもらって、小学生でも立ち寄りやすいように工夫をした。
それでも、なかなか入りにくい子というのはいた。彼がそうだった。ガラス張りの向こう側で考え込むような顔をして、やっと入ったかを思えば店中をまず一周する。手に持っているのは小銭だけが入っているであろうビニールの財布。彼はいつも一人きりだった。
「何か、探しているものがあったら声かけてね」
私がレジのほうから声をかけると、ぱっと驚いて、縮こまってしまう。
それもそうだろう。三十を過ぎた私から急に声をかけられて、小さな子どもはたいていこういう反応をする。でも、それ以外にどうすればいいんだろう。
子どもが店内をさんざん見まわした後、私のほうへ来た。勇気がある。
「あの、大人が使うノートって、小学生は買えないんですか」
「大人が使う……ああ、大学ノートかな? 買えるよ。ちょっとこっちの棚見てごらん」
漢字練習帳や方眼ノートのコーナーの裏に、大学ノートが各種揃っている。
「あの、学校で使ったらダメだから、買うのもダメかなって」
そういえば小学生の頃はノートや鉛筆の種類に指示があったのを思い出した。
「大丈夫。学校じゃなくて、おうちで使うのはいいんじゃないかな」
「まちの図書館はいい?」
「図書館もいいよ」
「……わかりました。うちと図書館で使います。うわー、いっぱいある」
「いっぱいあるね。中学校から大人になるまで、ずっと使うノートだから、いっぱい用意してるんだよ。選ぶお手伝いするよ。何を書くノートなの?」
「世界のあいさつを全部調べて、ノートに全部書く……」
「すごい! 勉強好きなんだね」
「違う……。これは勉強じゃないから、習い事でもないし、宿題じゃないし、自主勉強じゃない。ただ調べてノートに書きたいだけです……」
消え入りそうな声で彼は話していた。自然と私はしゃがむような格好になった。
「そうかあ。どうでもいい話するけどね、文房具はね、すごい道具なんだよ。紙一枚と鉛筆があれば、作文もできるし、迷路を作って遊べるし、マルバツゲームもできるでしょ、あとお絵描きもできるし、なんなら全部真っ黒になるまで塗りつぶしたりもできるの。学校のルールを守ってるきみは偉いね。でも、学校の外でなら、どれを使ってもいいんだよ。文房具は自由に楽しく使ってね」
そこまで話して、年を取るとおしゃべりになるものだなと思った。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんがいつも僕と違うノート使ってて。小学生じゃまだ使えないって言われたの。でも、買ってもいいの?」
「いいよ。小学校って場所だと使えないけど、きみの年齢でも使っていいんだよ。そのお小遣いは何を買ってもいいの?」
「うん。お年玉は預かってもらうけど、この財布のは漫画とか買ってもいいの」
「じゃあ大丈夫そうだね。そうだな、リングになってるノートは使ったことあるかな。……そうだね、じゃあ綴じてあるやつで……ノートの線はグレーと青があるけど、ああ、グレーにしようか。表紙はイラストのやつと写真のやつと、一色で塗られてるようなやつがあるよ。じゃあこれでいいかな。手に取って確かめてごらん」
大手メーカーから出ているロングセラーのノート、その改良バージョンを手渡した。なんと、罫線にしるしがついていて方眼紙のようにも使うことができる。まだカラー展開は青とオレンジだけで少ないものの、これは流行るだろうなと確信している。背表紙のテープ部分が銀色のメタリックなのもかっこいい。
彼はページをめくり、ぽかんと口を開けたまま見入っている。初めて自分の大学ノートを手にしたその子のキラキラした目をみて、やっと彼が昔ここに来て枕を抱えて指輪のキャンディーを買おうとしていた子だと気付いた。
だから、世界の挨拶か。国旗の興味がまだ続いていたなんて。
たくさんの情報を網羅したいタイプの人がいるのはよく知っている。弟がそうだったからだ。弟は流石仕事がデザインということもあって色に詳しく、和名や洋名はもちろん、HTMLなんかで使う色のコードもよく覚えていた。
弟が仕事で美少年キャラクターのイラストをよく描いていた頃は、各キャラクターの肌色をRGBの数値で暗記していた。実際にイラストを描くときは照明や陰影を考えてもっと複雑に色を使うらしいのだが、弟にとって肌の色のRGB値は趣味の収集の対象だった。同じ色白少年でもスポイトツールで測った数値は異なるから、弟はそういう細かい所を頭に入れるのが上手くて、たとえ要領がそんなによくなくても、彼の納品するイラストは毎回ファンからの評判が良かった。
慣れない手つきで会計をして、お姉さんありがとうございました、と言って、店を出る時にもう一回こちらを見て笑いながら頭を下げていた。大した子だ。国旗、挨拶ときたら次は首都だろうか。もう覚えているかもしれない。
梅雨がなかなか明けない年だった。客足も途絶え、ネットショップもこれ以上手を加えるところもなく、暇つぶしに刺繍でもやりながら店番をしていた。
ガラス張りの向こうから、黒のパーカーを着た中学生くらいの体格の男の子が来店した。一人だった。店内をゆっくりと一周して、ため息をついている。
もっと小さい子なら私から話しかけたりできるけど、大きな子はあんまり刺激したくない。見守る選択を取る。
こちらの様子をうかがいながら、棚を行ったり来たり。万引き防止には声をかけたい所だが、彼の表情があまりに悲しそうで、何も言えなかった。
私は最近とある外国人の作家と知り合いになり、拙い受験英語で話しながらその作家の作品を店に置いてみようという話になった。その作家は絵も描くし詩も得意だし食器や花瓶といった工芸品もなかなか見事だった。どれも伝統的なその国の要素と現代的なスマートで使いやすいのが組み合わさっていた。私が作家の生い立ちや作品に込めた思いなどを紹介するポップを作って、異国情緒あるコーナーを生み出してしまった。とはいえ結構満足がいっている。私と同じような年齢の女性がよく買っていく。
彼はそのコーナーで足を止めた。テイクフリーの作家の名刺を手に取って、じっと見つめる。一筋の光が頬を流れ星のように過ぎた。
「大丈夫?」
気付いたときには私は刺繍の手を止めてティッシュペーパーを持って彼のもとに駆け寄っていた。やっぱり、あの子だった。本当に久々に会った。背も伸びて、すらりとしていて。
「いや、あ、べつに、いや、えっ」
何か言おうとするごとに、涙が邪魔をする。私はたくさんティッシュペーパーを押し付けた。彼の端正な顔だちがティッシュペーパーに埋もれたあたりでようやく涙は止まった。
レジでシャープペンシルの芯だけを会計した。
「お客さん来ないから、こっちおいで」
「え、いいですけど」
あっけにとられたような顔で、こっちを見ていた。子どもが買ったお菓子をその場で食べたり、カードを開封したりするスペースに案内する。
「カウンセラーでもないけど、何か心配になっちゃったの。どうかした?」
「そうですか。迷惑かけてすみません」
「それはいいのよ。もしかして、あの展示コーナーで嫌な気持ちになったかと思って。あのコーナーは私が知り合いの作家を紹介するために作ったの」
「ああ……。俺、中学受験したんです。国際交流に力を入れているところに行きたくて。でもプレッシャーに負けちゃったんです。身体弱くて、熱出して。地元の第一中に行くことにしたけど、友達も多いし、みんなは悪い人じゃないんだと思うけど、でも小学校と違ってうまくなじめなくて、空いた時間はネットばっかりやってるんです。ネットには僕の知らないことを知っている人がたくさんいるし、どんな話題でも誰かは話し相手になってくれるから。でもネットをやっていない時の俺は、しょぼい中学生でしかないし。あのコーナーを見て、僕一人じゃこんなことできないって痛感して、それで色々思い出して」
ずっと彼はこの島国の外へ目を向けていて、憧れていた。
「社会の授業で使ったプリントの地図に東ティモールがないだろって、思って」
しかしその憧れはよそから見ればささいなこだわりに過ぎず、指摘をすればマジョリティーから面倒がられる。
「邪魔じゃないように言ったつもりなのに、なんで俺が嫌な思いしないといけないんだよってさあ、はーっ」
この世は常に知識のある方が優勢というわけでもない。むしろ、損をするときだってある。
「なんでいい加減なお前が教員で、真面目な非常勤の先生は講師のままなんだよって!」
あなたが正しいのにね。ひどい話だよね。何もできそうになくてごめんね。
「な、なにか言ったらどうなんですか、おばさんさあ!」
「……おばさんには、何もできないの。でも、ずっとあなたのこと知ってたよ。昔からここに来てくれて、国旗とか、世界の挨拶とか覚えててね、ずっときみが積み重ねてきたものを、おばさんはいつもすごいなって思っています」
「ふーん。あ、ありがとうございます。おばさん」
東ティモールの首都はディリ。二〇〇二年独立。
あの子は中学生の間、よく文房具を買いに来ていた。でも、高校生になってからはほとんど来なくなった。一度制服を見たことがあって、あそこは剣道の強い男子校だったなとはなんとなく覚えていた。
弟は相変わらず元気そうで、もうこの年齢だと子どもは作らないんだろうなと思った。弟の奥さんが持病のある方で、妊娠すると投薬を中断しないといけないからまさに命がけの選択だったのだ。私に配偶者はいないままで、しかしそれが自然な流れのような気もした。
私はこの後どう生きていくんだろう。母が言った、短大を卒業したときがピークというのはまさにこれなのか。社会人になるというのは高齢者をプレ体験しているということなのか。
趣味で始めた刺繍だったが、SNSなどで発表するということを覚えてますますハマってしまった。最初は自分よりも上手な人に刺激されてもっと頑張ろうと思っていて、そういうハンドメイドの作品を発表するイベントにも行くようになった。
そして最近の変化といえば、刺繍のキットをすずらん商店で販売しはじめたことだ。作家が他の国へ行ってから展示スペースが空いてしまい、もったいなく感じて自分で考案した品を置くことにした。
初心者向けキット。刺繍糸の扱い方や、ステッチのやり方。子供でも分かるようにしたかったので、説明に使う図は弟に描いてもらった。試作段階では常連の子どもたちの中でも興味がありそうな子に声をかけて、本当に分かりやすいどうかを調査した。
もちろんネット販売もしていて、キット丸ごと買えたり、私の考えた図案だけ買えたりする。手芸店ではないのでこれ以上はやらないつもりだが、個人的な楽しみとして販売している。
SNSで私の刺繍キットのハッシュタグをつけてくれた人の投稿を確認して、満足そうにしていると店のガラス扉が開く音がした。制汗剤と消毒液の中間のような、若い青年の香りがした。すごく懐かしい気持ちになった。高校なんて、三十……何年ぶりだろう。SNSは匿名だから、自分の年齢を忘れてそこに浸っていられる。でもこういう香りに触れると、懐かしさと同時に老いも自覚する。
「すみません、今いいですか」
今入ってきたばかりの彼がそう言った。
「はい、何でしょう」
「僕、ほんとに小さい頃から、ここによく来ていて」
「ええ、分かる! 国旗とか外国語が好きなとうやくんね」
遠慮がちな声だけですぐに分かった。中学生の頃と比べると、ヤマを越えたというか、安定して落ち着いている感じがある。間違いなく好青年だ。
「あはは。国旗が好きだったのはだいぶ昔なんですけど……。覚えててくれたんですね。よかった。おばさん、今日はちょっと挨拶しに来たんです。あとこれも会計お願いします」
角がたくさんついている、有名なメーカーの消しゴムを置いた。百円もしない。
「僕、今度オーストラリアに行くんです。これは日本のお土産として渡すつもりです」
「えー! そうなの! やっぱり楽しみなの?」
「いやもうほんとに楽しみです! 年越しはそこで迎えます。留学とかホームステイじゃなくて、知り合いのあれこれで行けることになったんです」
「ああ、ほんと、……よかったね。とうやくんは昔から知りたいことを全部知りたがって、たくさんノートに書いたりして、ねえ」
「はは、そうですね。今は興味が移って、素人ですけど心理学とか勉強してて。いま自分がある程度自信を持って生きていられるのって、たくさんの大人に見守られてたからだなあと思って、ここに来たんです。中学のあの頃は周りの人たちと上手くいかなくて……現実に居場所がなくて。でもおばさんは話し相手になってくれたから。ちょっと、気持ちをぶつけるだけになった時もあったし、申し訳なかったなって思うんですけど。僕の居場所になってくれてありがとうございます」
気付いたら私が泣いていた。自分でも感情が説明できない。
「ご、ごめんね……」
「泣かないでください、え、どうしよう……」
「いいの、私のことはいいの、とうやくんがやりたいことをやれるのが一番なの」
とうやくんは剣持刀也と初めて本名を名乗って、さらりと去っていった。
それからすっかり、彼はこの店に姿を見せなくなった。春には日本に帰ると言っていたけど、この店には来なかった。都心のバラエティショップのほうが品揃えもいいし、電車で自由に動ける高校生は行動範囲も広がって当然だ。
ただ、知らない間に変化が起きていた。年末年始だったか、彼がテレビに出ていた。今度はライブをやるらしい。いつの間にかコンビニの商品にも彼の顔がある。
彼は芸能人になったのかと思った。端正な顔だちですらりとした体形は人気がありそうだ。しかし、そういうわけでもなさそうだった。
彼はずっと高校二年生、十六歳だった。
私はそのまま年を取って、母の享年と並んだ。
彼は技術の発展とか何とかで、ずっと高校二年生なんだよと弟が教えてくれた。そんな馬鹿な話があるものかと思ったけど、年寄りながらになんとか取ったチケットで見たライブで目の前にいたのは、あの彼だった。
彼はこうなりたかったんだろうか。たくさん話したように思っていたけど、彼の人生の中では私は数パーセントにも満たない存在で、ただどうしようもないくらい、彼が輝いているように見えたからそれでいいと思った。
そこから先の記憶は断片的である。弟が病気になって、先に亡くなって、私は店を閉めた。グループホームに入ったけど周りの人とうまくいかなくて孤立した。刺繍は手が震えるからもうできなかったけど、図案を考えていた時を思い出して、絵を描き始めた。どの絵もスタッフがよく褒めてくれるが、私は誰にも見せない絵も描いていた。剣持刀也が笑っていた顔。泣いていた顔。怒っていた顔。すべてを一枚に重ねて描いた。ひらすらに描き続けていたら、そのまま眠るように意識を失った。
まぶたの違和感に、ぎゅっと顔面の筋肉を使って目を開ける。天井が見えて、何か思い出せそうで思い出せない。私はグループホームの寝室に寝ていた。さっきまで誰にも見せるつもりのない絵を描いていた。絵はどこ? 何度も聞いた声で、目を覚ました。
「おばさん、お久しぶりです。あっはは、笑ってくれた。ふふ、懐かしいですね。最近はお仕事も選びながら長く続けています。グッズとか……買ってくれてたんですね。お部屋のいい場所に飾ってくれて……ありがとうございます。僕はずっとこのままお仕事をして、漫画を読んで、たまに映画も見たりして、生きていこうと思います。そう。僕は文化が好きなんだって気づいたんです。海外っていうより、文化・カルチャー全般が好きなんだってね。エンタメじゃなくても、人間の頭で考えたよりよく生きるための工夫が好きなのかもしれないって。美術や建築、科学、医療。色々学びました。まだ分からないこともあります。そういう、文化の原体験のひとつがあのお店、すずらん商店でした。駄菓子でもくじでも、決められたお小遣いの中でやりくりして、ほんの数十円で気分ががらりと変わる。あのお店をやってもらえて、学校と習い事と家しか世界はないと思っていた僕を優しく見守ってくれて、ありがとうございました。……あのお店はいつだか、おしまいにしたんですか。収録のお仕事終わりに寄り道をしたら、シャッターが閉まっていて、僕はしばらくそこを見ていました。シャッターが開くんじゃないかって思って、ずっとね。でももうこんなに月日が経っていた。あんまり話すのは恥ずかしいんですけど、おばさんは小さい頃の僕の憧れの人でした。綺麗なお姉さんが何にも興味のない顔をしてレジに座ってるのが、大人って感じで。アクセサリーをいつもひとつ、つけていましたよね。金属が溶けたみたいな形の耳飾りが好きで。おいしそうだったんです。どうしてまだぜんぜん若くてなんでもできそうなお姉さんが住宅街の商店を任されているのか、段々僕らも不思議に思って、何だか深い事情があるのだとだけ思っていました。そうそう、お姉さんはずっとお姉さんなのに、僕たちみたいなガキは女性の年齢に固執して、いつしかおばさんと呼ぶようになっていて。でもそんな呼び方の変化も全然気にしていないみたいな感じで、レジから僕らを見ていました。あなたの中に積み重なった記憶が、その表情を形作っていて、僕の隣に友達がいるのが気にならないくらい、野次なんてどうでもいいくらい、あなたの背景に敬意を払いたくなっていて、ときおり見つめていました。看取り役に僕を願ってくれてありがとうございます。これ、五年前のあなたが書いたお手紙。書いたの忘れちゃったんですか。あはは。僕らみたいな、仮想現実の生き物が有限なあなたたちを見送ることはこれから先、ずっとあるんでしょう。僕はそちらにはいけないけれど、最後の見送りはできます。これから先はきっとゆるやかに何もかもが流れていき、あるべき場所であなたのことをみんなが思い出したりするんでしょう。もちろん僕も思い出すでしょう。ああ、安心してくれたみたいで、よかった。泣かないで……だけど、涙もなんて綺麗なんだろう。心が柔らかい色に染まって、筋肉の張りがほどよくなり、美しい細くて小さなまつげが閉じていきます。いい永遠の夜を」
終