一年浪人した後にそこそこの大学へ入学して、適当に入ったサークルの自己紹介で周りの新入生が全員年下だと理解した瞬間。「あと誕生日来たらもう居酒屋行けるじゃん」と笑う同い年の先輩。俺に敬語を使ったり使わなかったりする同級生。それからは街中の中高生のことを自分よりもずっと精神的に年下の「子供」と認識するようになった。
僕は自分が小児性愛者であると自覚した。単なる年下好きの範疇には収まらない。対象は中高生だ。小学生は正直ストライクではない。思春期の子どもが好きなのだと思う。ちょっと知性がついてきたからって生意気。そんなところが幼いんだ。でも幼いからかわいいと思う。かわいいから魅力だと思う。子供はどう転んでも綺麗だ。
ただ。俺の視線はキャラクターがプリントされた長袖Tシャツを襟元の肌着が見えそうになりながら着る女の子にも、アニメキャラクターのぬいぐるみストラップを校則通り一個だけつけている大人しそうな女の子にも向かなかった。
重そうなエナメルバッグを下げてバスの中でありきたりなスマホゲームに白熱している男の子。少し混みあった電車の中でどこも掴まないで器用に立って古典文庫を広げる細身のウインドブレーカーを着た男の子。良い所の高校の制服をまとっているのに着こなしが崩れていて友達と鉄道とアニメの話しかしない男の子。彼らが好きだ。美少年かどうかはさほど問題ではない。少年というだけで目で追ってしまいそうになる。
小児性愛、もっとくわしく言えば少年愛。まだ受け入れられないけど今の時点では俺の属性はそういうことになる。実験として、同じ学部でグループワークが一緒の女の子のことを意識的に性的に見ようと思ったことはある。美人と評判の子だ。ミスコンも狙っているらしい。でも性行為を想像したらそれだけで気分が悪くなってやめた。
この僕の嗜好は誰にも言っていない。言うつもりはない。気づいたばっかりだしあれこれと決めつけなくても別にいっか、なんて楽天的に考えている。
この夏は気のいい友達である萩尾がプール監視員のバイトを紹介してくれた。市民プールをぼーっと見ているだけの、ぼーっとした俺に向いてる(?)バイト。俺は結構友達に恵まれているほうだと思う。こんなにいいバイトを教えてくれるなんて。
「ええ-っ!? そんなにシフト入れて大丈夫なん? 竹宮、遊んだりしないの」
萩尾とのバイトは午後からなので、午前中に昼飯代わりにプール近くのカフェで駄弁ってから行くことにしている。デザートに生クリームたっぷりのいちごラテをすすりながら彼は訊いてきた。
「バイトでもしないとずっと家にいるだけだよ」
「家で、何、ゲームでもしてんの」
「本読んでる」
「嘘つくな! どうせやっぱ竹宮ってさ、彼女いるんだろ?」
「本当だって。ロシア文学とか、学科の先生に薦めてもらったの読んでる。文学部だし。彼女いたのは高校生の時、一瞬」
「その話やべえよな。前に聞いたけど。その子めっちゃ可愛いのは羨ましいけど、なんか重すぎってやつ?」
「受け止められなかった俺にも責任が……ってこの話終わり。萩尾は夏休み何かやるの?」
「特になんも考えてないや。やべえ。読みやすくて薄いおすすめの本教えて」
「『悪霊』」
「嫌がらせか?」
簡易的なはしごを昇ると小さな座る場所があって、上空からの日差しはパラソルによって遮られている。塩素の臭いにももう一週間も経てば慣れる。市民プールはやはり家族連れが多い。カップルは少ない。定刻になるとチャイムが鳴って、全員プールから上がって身体を休める時間がある。その繰り返しだ。特に見ていて面白いものでもないし、それを分かって応募したバイトではあるんだけど、どうしても暇つぶしができないかどうか探してしまう。
今日発見したこと。あとで萩尾にも教えてやろう。この中に、市民プールガチ勢がいる。今日だけじゃない。たぶん、昨日も、その前のシフトの時も見かけた。妙に体力のある青年、というか少年で、休憩の時間以外はずっと泳ぎ続けている。マグロだ。泳いでいるときは意味分からないけど、休憩するときはちょこんと体育座りをするからどんな風貌なのかは分かる。細身で色白の高校生くらいの男の子だ。ぽかんと口を開けて、何を空想しているのだろう。遠くなので、顔立ちははっきりとは分からない。俺の興味は仕事に支障のない限りで彼に注がれた。
ちょっと時間が経って、休憩も何度か挟んだあたり、もう終わりごろ。奇跡が起きた。ガチ勢の彼が俺に話しかけてきたのだ。
「落とし物ってどこに届けたらいいですか」
プールサイドに落ちていたらしい髪ゴムを持って彼は訊いてきた。よく見るゴム紐を切って結んだだけのやつだ。はしごを降りる。ガチ勢、近くで見るとかなり美形だ。ちょっと背は俺より小さいくらいかな。泳ぎ続けた直後なのに息が上がっていなくてちょっとすごいなと思ってしまった。それにしても髪ゴムなんて、なくす前提みたいなものじゃないのか。
「うーん、ゴムくらいなら……」
「あっ、すみません、僕あんまり女性のあれこれに詳しくなくて。男子校で。わざわざ、なんかすみません」
「いや、ありがとう。拾ってくれてありがとう、どうも、本当に。俺、これ持っておくんで」
プールの監視員バイトは夏と同時に終わった。美しい彼のことは今後一生忘れないような気がした。
夏休みが終わって大学がまた始まったら、俺のサークルでは告白ラッシュが勃発した。全部で五十人くらいのサークルだけど、学年関係なく恋愛ムードに包まれていく。なぜかはだいたい予想ができる。きっと夏休みに「無」を謳歌したのだろう。だいたいくっつくのは成人済みの三年男子とスレてない一年女子で、二年生は早くも老害ぶっている。俺みたいに年齢が一つ上の奴はどうかというと。
「竹宮くん今日学食一緒に食べませんか?」
「来週の土日どっちか空いてたら、大学近くのカレー屋行くついでに前話してた小説の話しない?」
「学食で格ゲーやるけど竹ちー来ない?」
「前期ぶりだね!時間あったらご飯一緒に食べましょう!もしよければ通話したいな」
……など。
全部同期の一年生女子からのメッセージだ。後期になってメッセージが来る頻度が増した。特に断る理由もなかったからこれらの誘いに全部参加した。そうしたら、だんだん、まずいことになってきた。
サークルでの自分の扱いがおかしくなってきたのだ。前期は「浪人だし年齢の感覚ちょっと変な感じだけどかわいい後輩くん」くらい(良く考えすぎだろうか)だったのが、今はなんか全体的に、うーん、冷たいような、誤解されているような。距離を置かれている。何も悪いことはしていないはずなのに。
「竹宮って女慣れしてるからさ」
そう話す萩尾をサークル室のドア越しに見つけた時があった。俺は盗み聞いた。
「高校生の時もすげえ彼女いてさ、女と一緒にいるのに全然抵抗なくなってんだよね、あいつ。すっげーよな」
他の一年男子がやっぱそうだよな、と相槌を打つ。
「だから俺とかが狙ってた子みんな竹宮の方向いてんの。やっぱ女ってさ、そういうの慣れてる男に惹かれんだよ、絶対そう。女ってこれだからムリ。俺らも竹宮みてえになりてえよな」
それは違う。間違っている箇所がいくつもある。頭では分かっている。それを脳から神経を伝って声にしてしまえば済むだけの話なのに、吐くものがないのに嘔吐するときみたいな苦しさを覚えた。のどが詰まっているみたいで、鼻から息をすう、と吐いた。
どこか遠くへ行ってしまいたかった。この苦しさをなんとかしたくて、たまらなくて、でも、どうしたらいいかまるで見当がつかなかった。夕暮れは死を連想させる。気分が悪い。家に帰ろう。足がふらついて大学から駅までが遠く感じた。
降りたことのない駅で降りてやろう。それが俺にとっての「遠く」だった。誰も俺のことを知らない場所なら、いつもの路線のどこかで構わなかった。車内は妙に明るく見えた。蛍光灯がちらつくのがよく分かる。アナウンスの声が歪んで聞こえた。
しばらく乗って、知らない駅で降りたら、ホームに降りた瞬間にあの塩素の臭いがした。
電車が発車する! 同時に向こう側のホームの電車も発車した! 俺はその高速の動きを見つめながら、塩素の臭いを探していた! 確か、彼は、細身で、背は俺より低くて、男子校で、でも、それ以外が、わからない! スーツとオフィスカジュアルの群れの中に目を凝らす! 学生なら、今はきっと夏服じゃないだろう……!
見つけた、きっと彼だ!
県内で有名な男子校の制服を着ている! 改札はホームの階にはなく、階段を昇る必要がある! 俺は走った! 彼は階段から遠い位置で降りたから、走れば、出会える!
出会える? なぜ、俺が彼と再会する必要がある? 階段を昇りきったところで、俺は、何もない所でつまづいて、階段側へ中途半端に滑り落ちながら転んだ。トートバッグに入れていた大学のテキストと電子辞書が一番下、ホームまで転がって落ちていく。顔がなんだか温かい。少し前まで俺を構成していた液体はなまぬるく、無様な顔を紅で染めていく。
「え、だ、大丈夫ですか……? あ、すごい血出てる。僕、救急セット持ってるのでちょっと待っててください」
あの声が聞こえて、俺は泣いていた。最初に受験に失敗した時よりも激しく泣いていた。
「荷物も落っこちてますけど、まずは顔、上げられますか? 楽な姿勢とりましょう」
彼の細く角ばった手が俺の身体を持ち上げ、邪魔にならない位置へ移動するのを手伝ってくれる。どうやら幻ではないらしい。
「手足は動かせそう……ですよね?」
声が出ない。ただ頷く。彼は手早く消毒液を綿に染みこませ、俺に手渡す。手鏡まで持ち歩いている。
「これで……見て、拭いて……ね? 荷物、心配なので今のうち取ってきます!」
鏡に映る自分の姿はそれほど荒れていなかった。おでこに擦り傷があるくらいで、あとは打撲といったところか。久しぶりに怪我をしたからさっきは深刻に捉えすぎたのかもしれない。
「これで全部ですか?」
「ありがとう、全部です」
俺は立ち上がった。少し体は痛むが、寝違えたくらいの痛みだ。
「よかった。これ、ばんそうこう。気になるようだったら使ってください」
「そ、そんな、申し訳ないです」
「いちおう、あげときますね」
彼は一瞬怪訝な顔をして、そのまま軽い挨拶をして去った。
「あ、ありがとうございました!」
俺はどこへ行けばいいか一瞬分からなくなった。ホームへ戻り帰るか、この駅を降りて……彼に、彼に。
「待って、そこの、高校生の、助けてくれた、あなた!!」
声を張り上げたら、彼はその場で振り向いた。長い前髪がさらりと揺れて、奥二重の目元が見開かれた。
「こ、これ! 覚えてますか、俺、市民プールでバイトしてて、あなたが拾った髪ゴム、捨てられなくて!」
定期入れの鍵を入れるチャックの部分に、あれからずっと持っていた。掲げて見せた。
彼は口をぽかんと開けて、それからくすくすと笑った。
「市民プールで、泳いでる、あなたのこと、ずっと、その、えっと」
「僕、急いでるんですけど?」
彼は微笑んで、俺の言葉をじっと待つ。
「大好きです!」
改札にICカードをタッチして、そちら側へ向かう。……はずだったのに。
チャージ不足。知らない駅まで乗ってしまったから。当然だ。
顔を上げたら彼の姿は消えていた。
(終)