「いってらっしゃい」
バイトに精を出す同居人を見送った後は俺だけの時間の始まりだ。さっそく同居人に見られたら一発で別れを切り出されるであろう行為を開始する。
防音対策ばっちりのこの部屋で昨晩はさんざんな喘ぎ声をあげた俺だが、今はそのセミダブルのベッドに腰かけ、曲がった背中をシーツにつけスマホを片手にアプリを起動する。同居人には内緒にしているけれど、俺はまだこのマッチングアプリをアンインストールしていない。順番に顔写真が表示されるから、親指を使い「アリ」または「ナシ」をスワイプで淡々と操作する。
同居人ともこのマッチングアプリで知り合った。実家にいた頃は年齢的な問題でこんなの手を出せなかったが、大学進学をきっかけに上京が決まると俺は真っ先にアプリをインストールした。知らない人とスマホ一台で簡単に繋がれる。出会いを求める人々、とりわけ俺のようなゲイにとっては最高のツールだ。そうはいっても最初は怖かったからとにかくメッセージのやりとりを慎重にやって、真面目で優しそうな人と出会うことを目標にしていた。みんな俺の若さに注目してハイエナのように群がってきたが、一人だけ丁寧な物腰の美文を送ってきた人がいた。それが今の彼氏です。イエイ。ははは。メッセージが丁寧な美文だったのは彼が俺と同じくアプリを使い始めたばかりの一年生、しかも超有名大学に通っている人だったからなのだが。
同居人は優しい人だ。一年生の終わりごろから一緒に住むようになって分かったことだ。悪く言えば、優しいだけの人ともみなせる。正直見た目はそんなにタイプじゃないガッチリ系だし、食べ物の趣味も合わない。彼は外食を好むけど、俺は家でゆっくり自炊したものを食べたい派だ。この前俺が家でチャーシューを仕込んでいたら白い目で見られた。だが彼は優しいから美味しそうな笑顔でチャーシューにかぶりついてくれた。正直言って、唯一合うのは情事の相性だけだ。
マッチングアプリの画面を薄目で見つめる。今度は迷わずガッチリ系を「ナシ」に振り分ける。あと、おじさんはダメ。俺が年下好き、というかショタコンをこじらせているからだ。とはいえショタがここに登録されているわけもないので、手がかりとして「大学生」とか「専門学生」とかのハッシュタグを参考に振り分ける。あとは、あれだ。面白半分で顔写真を登録されているであろう、明らかに他撮りで低画質のきまってない顔のやつはむろん除外だ。
もう何件処理したことだろう。そろそろいいか、と思い「アリ」のカテゴリに入れた人たちをリストで眺める。今日もまた、特に惹かれるプロフィールは見つからない。……あれ。こんな美形のド好みな人いたっけ。いるってことは「アリ」にスワイプしたってことだもんな。でもこの顔、どこかで見たことあるような……。
半袖シャツからのぞく肌は白く、陶器のように美しい。紫がかった黒髪は前髪が長く、幼い印象を抱かせる。ぱっちりとした目は奥二重のように見える。唇は薄く、顔の輪郭がシュっとしていてまさに美少年という印象。身体は細身で凛とした存在感がある。写真は自分の部屋で撮ったのだろうか、壁紙を背景にしている。それにしても家の中で体躯が分かるほど離れて撮影するなんて、これ他撮りじゃないのか? 不自然だ。家の中で誰かを呼んでマッチングアプリ用の写真を撮ってもらうなんて、そんなのありえない。
ああ、そうだ。彼は俺の遠縁の親戚、剣持刀也くんだ。人気配信者グループに所属していると実家の北海道にいた時ちらりと耳にしたことがある。顔出しでしかも学校の制服を着て実名で配信しているなんて、危ないことをするものだと思ったのを覚えている。最後に会ったのは六年ほど前になるか。誰かの法事で食事を一緒のテーブルで食べた気がする。うちは一人っ子だからこんな弟が欲しかったななんて思った。
マッチングアプリに顔写真が使われているのはきっと誰かのいたずらだろう。たぶん配信の背景を切り抜いてどこかの部屋の壁の写真と合成したのだ。悪質だ。だけどきっと彼は有名人だから分かる人にはすぐバレる嘘だ。愉快犯のアンチかノリを分かってないキッズがやったことに違いない。
マッチングアプリを閉じて、今度はポルノサイトを巡る。俺の一日は、こうして時間を潰して過ぎていく。なんせ今は未曾有の感染症が流行していて、大学の授業がオンラインになってしまったのだ。俺は音大に通っているから、直接指導を受けられないのならいっそ休学したほうがいいと思いその通りにした。ところが平日昼間から授業を取らないとなると、途端にやることがなくなってしまう。バイトはやる気にならないし、そもそも向いてないと思うからやらない。感染症も怖いし。あと、専攻は電子音楽だが自宅で音楽制作する気にもなかなかなれない。ネットに制作物を発表するアカウントはあるけど、なんだかやる気が起きない。向いてないのかな。たまに落ち込む。でも美少年の画像をネットでみたりしているとそれを忘れられる。だからこうして暇さえあればポルノサイトを鑑賞する行為に耽ってしまうのだ。
しかし、今日はなんだかどの動画もいまいちピンとこない。まるで俺がゲイじゃないかのように、男たちが交わる様相がどこか俺から遠い出来事のように感じる。なぜだろう。ジャンルを変えてみる。美少年のイメージビデオものでいこう。検索をかける。天井を見上げる。やっぱり、なんだか今日はおかしい。
剣持刀也くんの顔を見て、意識せず「アリ」に振り分けてしまったからかもしれない、と俺は思った。親戚の子を性的な目で見ている自分に自分で動揺しているのだ。これは今日同居人がバイトから帰ってくるまでに治す必要があるな。同居人はスキンシップが多い。玄関で靴を脱がないうちにイチャつくこともよくある。何が感染症怖いし、だよ俺はよ。バレたら一巻の終わりだ。
昼前には近所にある国立公園の入場料を払わなくてもいい芝生の広場まで散歩して、音楽のアイデアを探す。レジャーシートを敷いている親子の姿が目に入る。アウトドアなことは結構好きだ。今度機会があればバーベキューを自分一人でやってみたいなと思った。そこに同居人を加えていない自分に少々うんざりした。そろそろ潮時かなと思いながらも、また新しい相手が見つかる確率の低さを考えてやっぱり踏みとどまり、そういう性に生まれたのだから仕方ないとため息をついた。
結局アイデアは浮かばず以前見つけたいい曲のリミックスをする作業に戻ることにした。同居人が帰ってくるまでの間、スピーカーでガンガン音を出しながら音楽制作ソフトで作業を進める。そうこうしていたら急にお腹が空いてきたので、ズッキーニとベーコンを油でいためたものをおかずに飯をかきこむ。今日のバイトはお昼までって言ってたっけ。そろそろ帰ってくるな。ピンポン、とチャイムが鳴り同居人の顔がモニター付きインターホンに映し出される。
「おかえりなさい」
あれから一週間経って、あれというのはマッチングアプリで剣持刀也くんを見かけてしまった出来事のことだが、俺はまだ彼のことを忘れられずにいた。ポルノサイトは全部美少年ものばかり巡回するようになった。同居人への興味は日々薄れていき、ちょっとしたことですぐ口論するようになった。今日だって家で何もしない俺にオンライン授業のレポートで忙しい同居人が釘を刺し、空気が悪くなってたまらず俺は外に飛び出してきた。
剣持刀也くんの配信は検索したらすぐにヒットした。顔出し実名で配信活動をしているのだから当然だ。このあいだ同居人がいないうちに目にとまった配信アーカイブを見たら、聡明で明るく優しそうで機知に富んでいる彼の様子が分かった。自らをピエロにして笑いをとっている姿もなんだか愛おしく思えた。リスナーとバチバチのやりとりをしながらも、例えばリスナーネームをあえて決めないことで不当な叩きを回避しているそんな優しい関係性に憧れた。そしてたくさんの配信活動をこなしながらも、学業はおろそかにしない姿勢を尊敬した。
会ってみたい、と思ってしまった。法事で会えたくらいの血縁関係なのだから、なにか理由をつければ会いに行くことは問題ないはずだと思った。感染症の流行で人と会うことはできるだけ避けなければいけない情勢ではあるものの、親戚なのだからまあ大丈夫だろうと楽観視した。
でも肝心のところは、どんな理由をつければいいだろうというものだ。しばし悩む。今日もまた俺は国立公園内のお金を払わなくても入れる芝生のスペースに来ている。スマホを取り出して、手癖でポルノサイトを開く自分に牽制をかけつつ、剣持刀也くんのTwitterやYouTubeを開いてみる。
最新の配信は最初に音声トラブルがあって、剣持刀也くんが「音声大丈夫ですか」とコメント欄に聞いたところ真面目に「BGMうるさい」という者もいれば不真面目に「音声聞こえない」と嘘の情報をいう者もいる、という状況があった。これはなかなかに酷いな、と思った。こういうときの嘘は一番よくないボケだ。全く。
そうだ。音響関係のアドバイスをするというのはどうだろうか。母さん伝いに聞けば、きっと連絡先も教えてくれるはずだ。でも本当に上手く行くだろうか? 法事で会っただけの親戚を配信活動に関わらせるなんて、本当に大丈夫なのか?
芝生に寝転がってみる。やっぱりダメだな。やめておこう。俺は昼寝をして時間を潰すことにした。しばらく部屋には戻りたくない。
明晰夢を見てしまった。頭の奥の方で思い浮かべた風景が、次の瞬間には俺の前に現れる。やったぜ。運がいい。とびきりの美少年とイチャイチャしたい。俺は念じた。夢で何度も見たことのあるどこか知らない世界の大規模な現代建築の中で、俺はふかふかのベッドを大人気スローライフシミュレーションゲームのように一瞬でポンと設置する。あとは美少年が現れるのを待つだけだ。夢の中なのに夢を見すぎて天蓋付きのベッドにしてしまった。そこに横になってみる。ぽかぽかして気持ちがいい。現実の俺は芝生で横になっているのだからそれが反映されていると考えることもできる。さあ、天蓋の薄い布の向こうから現れる美少年は……。
俺は人生を俯瞰して見る癖がある。メタ読みってやつだ。それが夢の中でも発動されてしまった。そう。現れたのは剣持刀也くんだ。制服を身にまとってベッドに腰かける。足が細くて長い。アイドルみたいだ。剣持刀也くんはジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめた。ボタンを外し、秘められたデコルテが露わになる。
え、マジで当たりじゃね? 今日は本当に運がいいな。このまま夢の中だけでも、彼と繋がることができたら……。
剣持刀也くんは無邪気に「あはは」と笑った。目の奥が光り、こちらを見据える。鈍い痛みを股間に感じた。夢から俺は一瞬で醒めた。いや、まだいける、二度寝すれば……。
「すみませんでした、大丈夫ですか? うちの子が……」
誰かが俺に話しかけている。女性の声だ。バッと身体を起こす。股間が痛い。
「サッカーボール当てちゃって、ごめんなさい」
今度は少女の声だ。きょろきょろとすると、目の前に大人の女性と少女が申し訳なさそうな顔をして立っているのが見えた。サッカーボール? そうか、少女の蹴ったボールが俺の股間に命中してしまったというわけだ。股間、痛い。
「全然いいっすよ。痛くないんで」
「起こしちゃったみたいですみません……」
「ごめんなさい」
「や、ほんと大丈夫っす」
「お母さん、大丈夫って言ってるよ」
「こら! 本当にごめんなさいね……」
親子はそうして俺の元から去っていった。頭の片隅に何か引っかかるものを感じた。そうだ、さっき見た夢! あの続きをどうにかして見たいのだが……。痛みで目が冴えて眠れそうにない。
そういえば剣持刀也くんはロリコンだって聞いたことがあるな……。今の子とかがタイプなのだろうか。まだ彼のことを知らないから全然分からないけど。
やっぱり、ダメもとで連絡先ゲットしてみようかな。もう頭の中が剣持刀也くんでいっぱいになってしまって、少しでも関連する事象に出会うと真っ先に彼のことを考えてしまうようになっている。ここはひとつ、実際に会ってみて、あーあやっぱり俺はただの遠縁の親戚にすぎないのだと諦める必要がある。そうだ、これでいこう。
貯金残高が足りなくなってきたら逐次補充してくれるタイプの仕送りを送ってくれる母さんに久しぶりに連絡をとってみることにした。
「もしもし、いま何してた?」
「おー、庭の花手入れして休憩してたよ」
「暇ならなんだけどさ、親戚の剣持刀也くんいるじゃん?」
「ああ、なんかインターネットでアイドルやってるあの子っしょ」
「近くに住んでるのに一度も会ったことないから、連絡先知ってたら教えてくんね?」
「剣持さんちの刀也くんっしょ、あんたと何個違いだっけ」
「俺今二十歳だから四歳差だね」
「あらー、十六歳になったのあの子! あんときの法事以来じゃないの、おっきくなったねえ。いいよ、剣持さんとこに聞いておくから。仲良くやるんだよ」
うまくいってしまった。
その夜、夕飯を同居人の機嫌を取るために近くの高くて美味いラーメン屋で済ませた後、剣持刀也くんの連絡先が手に入った。最初にメールアドレスを交換して、その次にLINEの交換をした。
「音大! すごいですね! 電子音楽ってことは機材とかも詳しかったりするんですか?」
「そんなことないよ たまに楽曲制作配信をするから、それで使う機材なら扱えるくらい」
「えーすごいです! もしよかったらなんですけど、今度うちでバーベキューやろうと思ってるので来ませんか? 機材のお話とかしたいです!」
「ぜひ! めっちゃ嬉しいです! お邪魔させてもらいます」
……そんなわけで俺は剣持刀也くんのおうちにお邪魔させてもらうことになった。剣持刀也くんってアウトドア好きなんだな。LINEの文面も丁寧で真面目そうだ。
電車を乗り継いで数十分、丘の上の閑静な住宅街に剣持家はあった。坂の勾配で家の敷地内に石の階段があって、それを上ると人一人ぶんの小さな和風の門がある。インターホンを鳴らすと「今開けますね」という聞きなれた声がして、そのあとすぐに鍵の外れる音がした。神奈川の住宅街にしてはやけに広い庭。松の木が目立つが果樹も多く、夏みかんがたわわに生っている。二階建ての家から人が出てきた。
「あ! こんにちはーお久しぶりです! 刀也です」
挨拶を返し、軽く自分の名を名乗る。刀也くんだ。配信で見るよりずっとすらっとしている。ブランドロゴ付きのしっかりした生地のTシャツにスキニーパンツを合わせている。配信で見たことがない姿だ。普段着の刀也くん。年相応で可愛い。対する俺は海外サイトのネット通販で買ったアロハシャツ姿だ。
「家族のみなさんにも挨拶したいんだけど……」
「はい! どうぞあがっていって下さい。とはいっても、今父しかいないんですけどね」
「え、みなさんでバーベキューじゃないの」
「あれ、言ってなかったですっけ。すみません。今日は実質僕一人でバーベキューやろうと思ってたんですよ。ネットで動画見てたら自分でもやりたくなっちゃって」
そういえばそんなことを他のチャンネルの枠で話していたような気もする。え、二人きり? 俺大丈夫なのか?
「ああ、そうなんだ。じゃあお父さんに挨拶してから二人でやろうか」
動揺を年上ぶることで誤魔化した。
「そうしましょう」
家の中は和室が多くてでも日本家屋というわけでもないいわゆる一般的な豪邸の様子だった。二階から降りてきた剣持父に挨拶をして、世間話をした。
「大学の方は順調かい?」
剣持父からその質問が来た時、自然と体が緊張した。休学中毎日朝からマッチングアプリとポルノサイトで時間をつぶして公園を散歩し夜は同居人とセックスするだけの日々だなんて、言えない……。
「……オンライン授業なので、音大だしちょっとな、と思って休学して自主制作してます」
本当に嘘を混ぜたほうが本当らしく見えるはずだ。
「はえー、すごいですね」
刀也くんがジュースを飲みながら言った。
「実技のある学校はいま大変だと聞くからね。じゃあ、私はここで。刀也、火の始末はちゃんとしなさい」
「はーい」
そうして俺たちは二人きりになった。
「あの、刀也くんってバーベキューこれまでに何回かやったことあるの?」
「いえ、今回が初めてなんです、一人で進めるのは。家族でやる時は親がリードして進めてくれるじゃないですか。でもそれだったら僕食うだけじゃね? って思って。今日お誘いしたのも、北海道のご実家にいたときよくバーベキュー主導してたって話伺ってたので、そちらのお母さんから。何かアドバイスもらえたらと思ったんです」
「そうなんだ。確かにバーベキューとかキャンプは好きだし一人で進められるよ。それで呼んでくれたんだ」
「はい。あと、時間あったら僕の配信で使う音響の機材チェックしてほしいです。わがまま言っちゃってすみません」
「いいよいいよ、刀也くんの言うことなら何でも聞くよ!」
今の俺キモくなってないか? 大丈夫か? 不安で心臓がバクバクいってる。
「……ありがとうございます。じゃ、荷物持って庭行きましょう」
一瞬間が開いたのが怖くて仕方なかった。
いくら俺が経験者とはいえ、今回は刀也くんがひと通り独力で準備を進めることが前提条件だ。だから手伝うのは最低限度にした。刀也くんはなかなかに器用でほとんど俺の出る幕はなかったけど。焼くものを準備しようとレジ袋から材料を取り出したら、野菜は一般的な量入っていたけど肉はかなり多めの量が用意されていたものだから驚いた。
「これ全部焼くの?」
「ああ、全部焼くつもりです。僕結構食べるので。余ったら夕飯に出せばいいと思うし」
それにしても多い。バーベキュー用の肉が数種類盛り付けてあるトレーが五つもある。大丈夫か……という目をしていると刀也くんが言った。
「余った分、もしよかったら持って帰ってください。タッパーあると思うので」
「は、はい……」
配信で見るような、いつも通りの笑顔を向けられてしまった。可愛い。そんな顔されたら断れるわけないのだが?
バーベキューは順調に進み、昼食の時間をだいぶ過ぎたあたりでお開きにした。刀也くんが音響関係のことで相談があると言いながら俺を刀也くんの配信部屋へと案内した。壁には吸音材が沢山貼り付けられていて、いかにも配信者の部屋といった感じだ。
「最近、配信開始してからの音量調整が上手く行かなくって。コメント欄が素直じゃないのもありますけど、そもそも機材の使い方からしていまいち僕が把握できてない部分があるんじゃないかと思って」
「じゃあ、いつも通りの設定見せてもらえるかな?」
「分かりました」
PCを起動して、項目をチェックしていく。しかし、特段設定に誤りがあるとは思えない。強いて言えばマイクの位置が少々悪く、音割れを起こしやすくなっているくらいだった。あとは刀也くんが知っている知識による普段通りの調整で十分うまくいくはずだ。
「ああ、そうですか。分かりました。調整頑張ってみます!」
つらそうな顔をしている刀也くん。見ていられなかった。つい考えるより先に言葉が飛び出す。
「音量バランスの聞こえ方はやっぱりコメント欄の正確な意見を聞いて調整したほうがいい。けど刀也くんとこのコメント欄はあまのじゃくな人が多いから調整が難しくなるのは当たり前だ。刀也くんのせいじゃないよ。もちろん、コメント欄をもっと調教しろと言いたいわけじゃないんだけど。でも大事な音量確認の時に限って嘘をついてる奴らは、俺許せないんだ。刀也くんは何も悪くないのに」
「……ありがとうございます。僕、大丈夫なんで」
長々と喋ってしまった。引かれてるだろうな。やっぱり俺はただの遠縁の親戚にすぎないんだ。こんなの来る前から分かってたことだろう? そして今まさに、遠縁の「キショい」親戚という肩書きが俺に加わった。もうおしまいだ。
と思っていたら、刀也くんがまた口を開いた。
「と言いたいところなんですけど、えっと、今日バーベキューして、色々手伝ってもらって思ったことがあって……その、お兄ちゃんみたいだなって。兄はいるんですけど、そっちに似てるとかじゃなくて、新しい兄ができたみたいだなって思ったんです。あなたが僕をそんなに気にかけてくれるなんて、本当に嬉しいことだなって思いました。もしよかったら、また近いうちに会いませんか」
そんなに思ってくれていたなんて。こっちこそ嬉しい。これって脈あるのか? ない可能性の方が高い性をしている自分のことは今だけは忘れていたかった。
「ぜひ! 俺も刀也くんのこと前から弟だったらいいのにって思ってたんだよ! 今度はうち来てみる?」
ちょっと攻めすぎただろうか。てか同居人いるし休学して遊び惚けてるのがバレるかもしれない。
「わー、嬉しいです! やったあ。一人暮らししてるんですよね、僕そういうのに憧れがあるんです。今度の日曜とか空いてます?」
「空いてる! おいでー! 音楽の機材とか触ってみる?」
「はい! えへへ、すっごい楽しみです。あと僕のことは刀也でいいですよ。親戚のお兄ちゃんですし」
「いいの!?」
馬鹿みたいにデカい声を出してしまった。人の家なのに。剣持父もいるはずなのに。
「いいですよ、ふふ」
こんなに幸せになっていいのだろうか。何だか今の空気を永遠に覚えておかなければいけないような気がした。
日曜は同居人との取り決めで毎週必ず二人きりの時間を過ごすようにしている。だが次の日曜、刀也が来る。そこで俺は思いきることにした。
「日曜、親戚の子が遊びに来るから帰ってほしいんだ。それかどっか遊びに行くとか」
バーベキューの残りの肉を温めて夕食にしながら、俺は同居人に話を切り出した。
「それってこの肉の子?」
「そう」
長い沈黙。心が苦しくて二つに裂けそうだ。
「いいよ。出ていく」
「ありがとう」
「ただもう……一生戻ってこないつもりだから」
「え、それってどういう」
「俺のこと今どのくらい好き? 十段階でいったらどれ?」
「それは……」
二。高くても。言葉を飲み込む。
「俺の見た目そんなタイプじゃないでしょ。もっと細身のアイドルみたいな子、もっと年下の子がいいんでしょ。そんなの付き合ったばっかのころから知ってたよ」
なんで。その通りだよ。待って。俺を置いていかないで。
「一緒にテレビ見る時とかさ、配信のドラマとか見てるときの視線で分かったよ。でもどうして一緒にいてくれるんだろうって思ってた。ずっと不安だった。でもきみには俺がいないとダメだって、そう言い聞かせてたから今まで一緒にいたんだよ。でももう俺は必要ないみたいだね」
「……俺もっと頑張るから。バイトもするし、一緒にご飯食べに行ったり」
「もういいよ。無理しないで」
その言葉を最後に同居人は家を出ていった。いつの間にまとめたのだろう、荷物を軽々と抱え、姿を消した。もうLINEには既読がつかなくなった。ブロックされた。当然だ。
次の日曜までの間、俺は部屋を思い切って模様替えすることにした。失恋したショックはこうすることでなんだか癒えるような気がした。同居人からのプレゼントでもらった無印のアロマディフューザー以外はすべて配置を変えたり新しく買い直したりして、モデルルームみたいな部屋を目指した。竹串みたいなのが瓶に刺さってる芳香剤を買った。酒やタバコに溺れることこそなかったが、マッチングアプリをいじったりポルノサイトを見る時間は増え、もちろん音楽制作をする気にはなれず、嘘みたいに綺麗な部屋で堕落した生活を送っていた。
日曜になり、ピンポン、とチャイムが鳴って、LINEのやりとりから想定できる時間帯に刀也は来た。
「いらっしゃい」
「お邪魔します。わあ、綺麗な部屋ですね!」
来る直前までずっと掃除をしていたのだから当然だ。
「いや、散らかってるよ……。お茶とぶどうジュースだったらどっちがいい?」
「お茶をお願いします! 手を洗いますね……。このソファ座ってもいいですか」
「いいよ、はいお茶」
刀也はとても可愛い。この前はぶどうジュースを飲んでいたというのに、今はきっと恰好つけてお茶を選んだのだ、きっと。うわー、癒される。全部俺の妄想だけど。
人気配信者の剣持刀也が俺の家に遊びに来ている。今でも信じられない。ウエストポーチを斜めがけにして、この前と同じような格好をしている。手首が細い。指が長い。剣道部をやっているといっていたから、それなりに運動神経はいいのだろうけどこんなに細身の体躯をしていると腕とか折れてしまいそうで心配になる。
「わー、パソコンの前にキーボードがあるんですね、鍵盤のほうのキーボード。すごーい」
「それで音を入力して、DTMソフトって分かるかな、音楽作るソフト。それに打ち込む感じ」
並んでソファに座る。え、この距離感で合ってるかな。あの元同居人と一緒に座るために買ったソファだから、距離が近い。まつげ長い。鼻筋通ってる。本当にアイドルみたいな子だ。
「あの、質問なんですけど。ラップのトラップ一分半くらいの作るとしたら、どれくらいの時間で作れるものなんですか」
「ラップ? ああ、バーチャルラップバトル?」
トラップはラップの後ろで流れてるオケのことだ。高校生の頃何回か作ったことがある。
「そうです、それぐらいの想定でお願いします」
「どのぐらい複雑にするかによるけど、今は色んなツールが出てるから早ければ一晩でできると思うよ」
最近はめっぽうオリジナル曲を作るためにソフトを起動していないから、結構適当なことを言ってしまった。
「はえー、そうなんですね」
「触ってみる?」
「いいんですか!」
「いいよ全然。プラグイン……色んな音の加工するやつ、たくさんあるから、遊んでいいよ」
久しぶりに起動したPCは妙に動きが悪くなっていた。腕がなまっているのがバレないといいなと思ったけれど、ただ鍵盤を押して音色を確かめるだけの時間にそんな心配は要らなかった。
「えへへ、一緒にいると時間があっという間にすぎちゃいます」
鍵盤をいじりながら刀也が突然そんなことをいうものだから、俺の頭は混乱した。
もしかしてこれって普通に脈あるのでは? いや落ち着け、俺はただの遠縁の親戚であって……。でもこんな、可愛い笑顔で言われると揺らぐ……。いったん落ち着こう。俺はPCの前から離れ、ソファに腰かけた。
ところが刀也は「あれ? 行っちゃうんですか?」といった顔をしてこちらに寄ってくる。可愛い。……あ、やば。何かがプツリと切れる音がした。
ソファで隣に座った刀也のほうを向いて、俺は彼の顔を覗き込んだ。
「え、なにして……」
体重を徐々に刀也のほうに傾けながら、刀也の手を握る。震える瞳を見つめる。唇を近づける。
視界が真っ白になった。頬があたたかい。いや、痛い。……叩かれた? 一瞬、何が起きたか分からなかった。剣持刀也が俺の頬を叩いた?
「ちょ、刀也……くん?」
なんてことをしてしまったのだろう。罪責感。いますぐこの場から逃げ出して一人になりたい。いや、一人にすらなりたくない。このまま消えてなくなりたい。こんな馬鹿、この世の誰よりも先にいなくなった方がいいに決まってる。
刀也くんの顔を見られない。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。悪かったところ何でも指摘してください。いくら罵倒してもいいです。こっちを見ないでください。苦しいです。助けてください。
「DTMソフトのことで分からないことがあって。ドラムの音圧をもっと上げたいんですけど、どうすればいいですか?」
剣持刀也は俺を蔑むでもなく、恐怖に怯えるでもなく、ただ、いつも通りの笑顔をこちらに向けていた。
長い沈黙ののち、剣持刀也は家に帰っていった。いつも通りの笑顔で別れの挨拶を告げて。その後謝罪を送ったLINEに既読が付いた。出来事そのものをなかったことにしている文面が返信として届いた。その後も音楽のこと、アウトドアのことでいくつか質問が贈られる日々が続いた。ブロックされていないのがたまらなく恐ろしかった。
俺は音楽制作を再開した。モチベーションはただ一つ、あのいつも通りの笑顔だ。