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suidosui_txt

suidosuiの小説まとめです (NSFWはここにありません)

キスしたら液晶の味がした

バーチャルYouTuber にじさんじ
剣持刀也 伏見ガク †咎人†

「刀也、俺じゃダメなんだよな」
某動画の彼氏面ジェームズが勝手に伏見ガクをライバル視して勝手に惨敗してるの好き。
モブのオタクくん(剣持刀也と同じクラス)がジェームズになって勝手に惨敗する話です。
咎人については公式準拠の仲良し度で書いたつもりなのでCP要素はないと思います。


   1
 真っ暗な部屋。平日深夜零時過ぎ。スマートフォンの明かり。液体の作るレンズで歪んだRGB。法悦が一時的に俺の精神を明晰にさせている気も否めない。それでもいい。この暗がりの中でだけ理解できるものって、たぶんあるはずだから。
 画面の中にいる彼の、紫がかった黒髪によく映える色白の肌は、夏の青空というよりは冬の曇天がよく似合う。目の色はどこか緑がかっていて、光を受けると綺麗な石を連想させる輝きを持つ。若く溌溂とした声色は、それがイケボかどうかは男の俺にはよくわからないけど爽やかで印象良い。普段は年相応の男らしく、へらへらと人を小馬鹿にしたような話し方をするのに、ふとした瞬間に少女のような笑い声を上げるものだからその度にどきりとしてしまう。
 この感情が肥大であることは確実だ。とうとうこんな行為までしてしまったんだ。この際、俺が彼に抱く全ての感情を認めてしまおう。
 俺は剣持刀也に恋をしていた。そして、失恋した。
 刀也、俺じゃダメなんだよな。
   2
 第一志望の高校に落ちたのは、間違いなく自分の実力不足が原因だった。偶然受かってた私立に進んだものの、そこに知り合いは一人もいなかった。こんなんだったら女子みたいに、友達と同じ学校を受験する……みたいなことやっておけばよかったと後悔した。
 さらに不幸なことには、俺が受験した高校は第一志望以外すべて男子校だった。受験の時は共学とかどうでもいいと思っていたから、偏差値の高さ、進学実績、伝統校かどうか……とかの条件だけで志望校を決めた。まさか入学式当日、既に女子が恋しくなるとは思わなかった。
 襟のところに赤と緑のラインが入っているのが特徴の、街で気を付ければそこそこ目立つ制服を着た、見渡す限り、男、男、男。スポーツに力を入れてるタイプの私立だから、体格のいい男子ばかりが体育館にぎっちりと押し込められるのは圧巻だった。純度百パーセントの「女子ゼロ空間」。四月なのに、なんか汗臭かった。
 そんな中で目立つのは、二パターンのやつらだ。
 まず、俺みたいなオタク。入学して半年くらい経って分かったことだけど、オタクとか陰キャって、男子校では共学ほど肩身が狭くない。共学ほど露骨にハブられたりはしない。
 次に、女みたいにかわいい、と言われてる奴ら。男だけのコミュニティに身を置いていると、どうしてもこういうのが「必要」とされてくる。有り余る欲の発散先ってことだ。その中には先輩(もちろん男)と付き合ってるとかいう奴もいて、最初は結構驚いた。同性愛がある種当然の世界。まあ、ある程度時間がたてば慣れるもので、今では教室で堂々といちゃついている奴らがいても気にも留めなくなった。慣れているとはいえ、当事者以外は「俺は男なんか好きじゃない」ってアピールすることをやめないから、全員が全員それに積極的ってわけでもない。それでも中学の頃と比べれば、恋愛に寛容な空気は確実に形成されていた。
   3
 二年に進級した俺は、新しいクラスにすぐなじんだ。文系の特別進学クラスである。一年の六月くらいにクラス分けの希望調査を取られた時、やる気のない俺は楽そうな文系を選択した。これが共学だったら、文系ということで必然的に女子が増えてちょっとテンションが上がるところなのかもしれないが、男子校の文系にいるのは男だけである。悲しい現実だ。
 実のところ、この特進クラスで俺の成績は中の下だ。中学の頃は得意だったはずの国語も英語も地歴公民も数学も理科も、一年の学年成績は全て酷いものだった。その中でも比較的ましだったのが文系科目だった。だからまだ助かってるほうだ。これで文系もダメだったら、あっという間に取り残されるところだった。
「中の下」にいた理由は単純でありふれたものである。自分が成績上位だと錯覚して怠けていたのだ。提出物もろくに出さず、化学の実験レポートもなくし、数学と英語の予習もサボって、宿題も当てられるときしか解いてこない。ノートは黒板をうつすだけ。徹夜で挑んだ学年末テストの成績はほとんど六十点前後。つまり赤点はギリギリ回避。俺は典型的な燃えつき症候群だった。
 話は少しだけそれるんだけど、この高校には何年も前から伝統行事としてホームステイ制度がある。一年生のごく数名を選抜して、秋冬あたりにオーストラリアへ滞在させるらしい。参加するためには厳しい条件がある。全科目で成績上位者であること、英語でのコミュニケーション能力があること、教員による面接を突破すること……とかだ。要するに頭がいいコミュ強しか参加できないイベントってことで、大学の指定校推薦枠に関係しているとかいう噂もある。俺たちの学年は例年より競争率が高かったらしく、積極的な一部のクラスメイトも応募してたけどみんな不合格になっていた。
 にもかかわらず、それに参加できた「運動部」のやつがいた、と二年生になったばかりの四月某日、クラスの隅で話題になっていた。
 この高校は私立らしく運動部にお金をかけ、設備を整え、優秀なコーチをつけて選手をしっかり育成している。だから運動部に入った生徒は勉強する暇がないくらい部活で忙しいはずなのだ。そんなやつがホームステイに参加したという。間違いなく「秀才」に違いないと思った。
 ……でも、そういう噂が広まっていただけで、誰もその秀才がどういう名前の誰なのか知らなかったんだけど。まあ四月の教室なんてどこもそんなものだろう。やけに静かな昼休み。まだお互いの出方を窺っている時だ。顔なじみの奴とどうでもいい会話をしているだけで精一杯。ぼっちの俺が会話を盗み聞きして得られる情報はこれが限界だった。
「秀才」。入学当初からずっと、俺のコンプレックスだ。勉強もできて運動もできて、おまけにコミュ力もあって……。俺が諦めたものを手に入れやがって。現実離れしている。俺はそのホームステイに選抜された「秀才」に敵対心を抱いていた。何か「弱み」があるに違いない。それを知るだけで幾分か気持ちが楽になるはずだと信じ込んでいた。こんなの負けを認めたような行為かもしれない。でも、俺にはそれしかやることがない。何としてでもそいつが誰なのかを突き止め、弱みを知りたい。知るだけでいいから。そう、すがっていた。
 教室の隅でそんな痛いことを考えていた俺は、その時どういう顔をしていたのだろうか。きっと共学だったら女子の反応ですぐキモいしかめっ面をしていると気づけたかもしれない。しかしそこは男子校だった。他人に関心のないやつらばかり。誰も俺には話しかけない選択をした。
   4
 五月になっても俺は「秀才」を探していた。自分から声をかけることができなかったから、それが誰なのか誰にも確かめることができずにいた。最悪にも程がある。しかし高い自意識と新しい環境への馴染めなさ、五月病とかなんとかも相まって、俺は孤独を貫いていた。
 そんな俺だけど、せめて与えられた役割はこなそうと努めていた。そうでもしないと最後に残された自尊心すら失いかねなかったからである。そのため、人から無理やり押し付けられたクラスの掃除もそこそこ丁寧にやっていた。男子校は女子がいないぶん気楽だけど、同時にかっこつける必要もないからいくらでも堕落できる。オタクに面倒事を押し付けたって、誰も止めに入らない。別に構わなかった。俺は帰宅部だ。こんな早い時間に帰宅してもやることがない。ゲーセン通いも去年で飽きた。
 だからこの掃除は時間つぶしなのだ。学校にいる時間を無理やり延ばすための。与えられた役割をこなそう、だなんて後付けの理由なのかもしれない。……つまりこの時の俺は人から押し付けられた、なんて事実を認めたくはなかったのである。
 黒板のチョークを置く部分(ここの名前ってあるのだろうか)を雑巾で拭いて、使いやすい位置にチョークを配置。黒板消しを置いたクリーナー(これにも名前あるのか)の電源を入れる。掃除機みたいな音が夕方の静かな教室に空気を読まない音量で響く。
 グラウンドから聞こえるサッカー部の基礎練習の掛け声も、陸上部のホイッスルも、廊下で騒ぐヤンキーの声も、みんなかき消される。心地よいノイズは好きだ。自分だけの空間になったようで落ち着く。気分が良くて静かに目を閉じた。と、同時に。
「……くしゅん!」
 女の子みたいなくしゃみが聞こえ、目を開ける。なんと、クリーナーからチョークの粉が煙のように噴出されていた。長いこと内部の掃除をしていなかったからだろうか。教室中が煙い。雲海みたいだ。ところで、今くしゃみをしたのは……誰だろうか。
「大丈夫? いったんスイッチ切ってみて」
 誰かに言われて慌てて電源を落とす。ぷしゅう、と間抜けた音を立ててクリーナーが止まり、粉の噴出が終わった。気が付くとすぐ隣に、クラスメイトだろうか、人が立っていた。
 短髪だがその毛先はすっと下へ向き、上品な感じがする。目鼻立ちは整っていて、文句なしの美形だ。見た目からは育ちの良いお坊ちゃんっぽさを感じる。身長は自分と同じくらいだから、百七十くらいだろうか。ブレザー越しでも分かる細身の体は、茶道や華道とかが似合いそうだと思った。
 こいつが女の子みたいなくしゃみをしたのか。むさくるしい男子校の中でぱっと目を引くくらいに綺麗な人だ。男子校で目立つタイプ・二パターン目の、男からモテる可愛いタイプに分類され得るな、と思った。否、可愛いというより綺麗な感じがする。三パターン目に分類しておこうか。
 でも、男だ。ここは男子校だから。ちょっと残念な気もしてしまう。
「制服に粉かかってるよ」
 明らかに男の声で注意される。
「あ。……ども」
 突然のことに驚いた俺は曖昧な返事しかできない。手で雑に払い落とす。
「クリーナーが暴走してるところ、初めて見た」
 淡々とした話し方をする人だ。しかし怖い印象は受けない。気さくな感じの立ち振る舞いをしているからだろうか。
「そ、そうだね。たぶんそろそろ中を掃除しないといけなかったんだと思う」
「そうなんだ。今日はこの後予定ある?」
「えっ、ないけど」
「俺もないから掃除手伝うよ」
 そんな、悪いよという言葉が脳内から出てくる間もなく、その人はてきぱきと濡れた雑巾を用意し、床に散ったチョークの粉を拭き始めた。
「あ、ありがとう」
 言葉と勇気を振り絞り、俺は水道へ行ってクリーナー内部のスポンジを洗いに行った。
 教室に戻ると、教壇が見違えるほど綺麗になっていたものだから驚いた。これを全部彼が拭いたのだろうか。申し訳ない気もする。
「お疲れ様。ざっと拭いておいたから、あとはクリーナーを元通りにするだけかな?」
「あ、ありがとう。えっと、スポンジを干すのに時間がかかりそうだから、クリーナーにセットするのは明日の朝にするよ」
「そっか」
 そう言ってこの人は口角を少しだけ上げて目を細めた。人形みたいな笑い方をする人だ。綺麗だ。
「手伝ってくれてありがとう」
「一人で掃除してたから気になっちゃったんだよね。他の当番の人休みだったっけ」
 押し付けられたことをもう勘付かれている。
「いや、そういうわけじゃない……」
 彼は一瞬だけおでこに皺を寄せ、また何事もなかったかのように善良そうな笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ僕はこれで」
 待って。まだ名前も知らない。
「あの、あの!」
 彼が首をかしげる。サラサラした髪が揺れて、夕方の教室で様になっていた。
「名前聞いてもいいですか」
 そう言って自分のありきたりな名前を名乗り、よろしく、と付け足す。人に名前を聞くときはまず自分からだ。
「よろしく。剣持刀也です。四月の自己紹介の時間は……ちょっと用事があって欠席してたんだよね。名乗るの遅れてごめん」
「いやいやそんな!」
「それじゃ。また明日」
 剣持刀也は、そこが自分の席なのだろう、教室の真ん中あたりの机に置いた荷物を持ち、背中に長物を担いだ。全然詳しくないから判断できないけれど、剣道部か弓道部なんだろう。名前からして剣道部だろうか。それは流石に違っていた時の気まずさが尋常じゃないから断定はしないでおきたい。もしかして今日は部活が休みなのか。じゃあなぜ道具を持っているのだろう。よくわからない。
 口だけ動かして「バイバイ」と伝え、教室を去る様はまるで自分が昔からの友人であるかのような錯覚を抱かせる。初対面なのに。おかしいな。
 ……そういえば、いつから彼は教室にいたのだろう。俺が教室の掃除を押し付けられた時には誰も残っていなかった。単に忘れ物を取りに来ただけかもしれない。でも。もし。彼が俺のことを気にかけてくれていてくれて、クリーナーの事故にかこつけて助けに来てくれたのだとしたらどんなにかっこいいだろう。彼が掃除を押し付けたあいつらに強烈なカウンターをしかけるのだとしたらどんなに絵になるだろう。
 自分でも気持ち悪いと自覚できる、夢見がちな女子みたいな妄想をしてしまう。その妄想のヒロインが自分だっていうのがまた最悪だ。しかし、それほどまでに彼との遭遇は劇的だった。まるで現実じゃないみたいで。
 初夏の夕暮れは心地よい涼しさの風が吹く。温かい気持ちを冷ましたくなくて、教室の窓を閉めた。
   5
 次の日の昼休み、俺はいつも通り廊下側の一番後ろの席で一人、母の作った弁当を食べていた。一緒に食べる友達なんていないから、この後はいつも通りソーシャルゲームをするか動画を見るかして次の授業を待つつもりだ。
 クラスの陽キャはこぞって購買に行く。すぐ売り切れになるパンがあるかららしい。そういうザワザワした場所で必死に物を手に入れるなんてごめんだ。俺には関係ない世界の話だと思う。
 ちょうど今、陽キャグループが戻ってきたらしくて、教室の隅に散った陰キャによるぼっち飯・満喫空間だった教室がその空気を変えた。
「だからさ剣持、お前最近付き合い悪くなったじゃん?」
「剣持くんにも恋人さんができたんですかぁ?」
「なるほどなあ、放課後すぐ帰っちゃうのは他校のカノジョと会うため……と。剣道一筋だったのはもう遠い昔って感じ?」
「いやいねーよ! ワシはずっと独りじゃ! 部活もサボってないわボケェ!」
 ……剣持刀也がその一群の中にいたことに、数秒の間をおいてようやく気が付く。キレッキレで突っ込みを入れるその姿に、あの人形のような美しさの面影は微塵もない。てか、「ワシ」って何だよ。あまりにもキャラが違いすぎてしばし呆然とする。
 教壇側の扉から入ってきた陽キャ達は、皆購買のパンを持っていた。剣持刀也も同じパンを買ったようだ。誰かがまたふざけたらしく、剣持刀也が突っ込んでどっと笑いが起きる。他人が勝手に盛り上がっているのを外野で見ているだけ……という状況は決して気分の良いものではない。俺は弁当のおかずを口に入れた。いつもと同じ味付けのはずなのに、なぜかまずく感じた。
 昨日会った時に、持ち物から運動部だと分かった瞬間から……本当は気づいていたのかもしれない。剣持刀也は俺と違う次元にいる。「そちら側」の人間なんだ。勝手に「味方」だと勘違いした俺が悪い。掃除を押し付けられた俺のことだって、今はもう忘れているはずだ。
 ふと、あちらの会話が途切れた瞬間、剣持刀也がこちらを向いた。決して西洋人のように大きくはないものの、形の良い二つの目が俺を捉える。何か口を開きかけたのがはっきり分かった。しかしすぐ他の誰かが剣持刀也に話しかけ、剣持刀也は楽しそうに突っ込みを入れに会話に戻った。
 俺は弁当の残りを腹に流し込んで、スマホを取り出した。アプリを開いたり閉じたりしたけど、特にやることが見つからなくて、チャイムが鳴るまで天気予報と株価の画面を往復していた。
 陽キャたちは教壇の前にある机をくっつけ、皆で一人のスマホを囲んで見ながら、おそろいのパンにかじりついていた。
   6
「さっきはごめん。無視したみたいになっちゃったよね」
 その日の放課後、ご丁寧にこんなことを言われてしまって困惑した。育ちがいい。そのきめ細やかな配慮に嬉しくなってしまうが、同時にその能力の高さに嫉妬してしまう。
 そういう「性格の良さ」ってさ、文武優れない人が持ってこそ救いになる要素じゃないか。文武両道の美形が人間性までしっかりしてたら、誰も勝てない。ここは男子校だし女子にアピールするわけでもないんだから、何の勝ち負けだよって感じだけど。
 今日一日中観察して分かったことだが、剣持刀也の周りには常に人が絶えない。やっと一人になれるのは、そのお友達がみんな部活へ行くこの時間になってからだ。
 二年生とはいえ、まだ三年生は幅を利かせている時期なのだろう。遅刻しまいとホームルームが終わると同時に教室を飛び出すのは皆運動部だ。なのに、剣持刀也は俺と二人きりになるまで教室に残っていたのである。
「別に気にしないでいいよ。剣持くんも部活あるんじゃないの」
「うん。でもちょっと先生に呼ばれてるからその用事が終わってから行くつもりだよ」
「そうなんだ」
 先生から呼び出されてるなんて、こんな優等生みたいな見た目しててもやることはやってるのかもしれない。そう思うと、なぜか胸が痛んだ。
「あ、呼ばれてるって言っても悪いことしたわけじゃないよ! ホームステイの報告とか手続き、まだやること残ってるみたいでさ」
「え。ホームステイ参加したの。すごい」
「いやいやそんな。あ、そっか。僕って自己紹介の時もホームステイのことで話し合いがあって職員室に呼ばれてたからいなかったし、あんまり認知されてないのかな」
 ……ここで、こんなタイミングで「秀才」を見つけてしまった。この時、あんなに「秀才」の弱みを握ってやるなんて意気込んでいた俺はどこかに消えていた。今思えば、夕暮れでオレンジ色に照らされた教室という舞台と、夜空の色をした髪色の剣持刀也とを対比させた美しさにあてられて、俺の思考に靄がかかっていたのかもしれないが。
 剣持刀也はさっきからずっと教室をふらふらと歩き回っていた。片足に体重を傾けたり、腰に両手を当てたりと忙しない。余裕のある仕草。陽キャの運動部男子にしか許されない、こなれた動作だ。
 思っていたよりも、「秀才」は放課後も暇そうにしていたから驚いた。てっきり隙間時間を見つけては、予習復習さらには塾の課題……みたいなやつだと思っていたのだ。実際には剣持刀也はこの隙間時間に何もしないでフラフラ歩いている。
「そういえば今日はトイレの掃除の日だけど、やらなかったの?」
 剣持刀也が突然言う。この学校は私立だから清掃員を雇っている。しかし建学の精神がどうとかで生徒も少しは掃除を担当しないといけないのである。
「今日は当番の人がやったから……」
「えっ君が今週の当番じゃないの?」
 そう。今日も俺は掃除を押し付けられると思っていた。しかし、どういうわけか当番の奴らが「もうやらなくていい」と言ってきたのである。嬉しくはあったのだが、突然のことだったのでどうしたのだろうと不審に思っていた。
「あの、その……」
「わかってるよ。押し付けられてたんだよね」
「あっ……あっ……」
「あいつら目先の事しか考えないから、絶対そうだって思って。午後の授業の休み時間に直接確認したよ」
「あ、あ……それは……俺……」
 上手く口が回らなくて焦ってしまう。なんて続ければいいのか考えていると剣持刀也がまた話し出した。
「ああいうタイプに面倒なこと頼まれたら誰でも断れないよ。大丈夫。個人的にちょっと違うだろって思ったから、さっき直接話してみただけなんだよね。……たぶん、もうあいつらはそういうことしてこないよ」
「……どういうこと」
 なぜ断言できるのだろう。
「ないしょ」
 剣持刀也は口元に細い指を当てた。
 このことの詳細は今でもよく分からない。ただ、剣持刀也が俺に掃除を押し付けたやつらと裏で「話し合った」とかいう噂は耳にしている。この学校にはその人望ゆえに剣持刀也を慕う者も多く、めったなことでは誰も逆らわないのだという。そのため、彼に嫌われるということは同時に多くの生徒からの評判を落とすことに繋がり、クラスでの立場を失うきっかけにもなりかねないのだ。
 もっとも、これらは全て噂であり、憶測に過ぎない。学校の陰で生きる人間に、裏事情なんてセンセーショナルなものは刺激が強すぎる。今でも俺はこれらのことをあまり信じないようにしている。
   7
「ねえ、ホームステイに選ばれたってことはさ、普段勉強とか大変じゃないの?」
 それはまるで手品師に種明かしをねだる子どものようで、後に自己嫌悪に陥った質問だった。それでも剣持くんは親切に答えてくれた。
「うーん、あんまり特別なことはしてるつもりないかな」
「え、嘘だ」
「まああれかな、最近他の人に言われて気が付いたんだけど、僕って割と他の人より先生の話よく聞いてるのかも。授業中寝たことないし」
「授業中寝たことない人なんているんだ」
「……だって先生一生懸命喋ってるんだもん。あと、最近ちょっとやりたいことが増えてきちゃって、家で勉強する時間をあまりとりたくないんだよね。だからなおさら授業を真面目に受けてる……のかも」
「やりたいこと?」
 彼には才能と呼んでもいいほどの高い能力がたくさんある。勉強もできて、剣道だってこの学校でやっていけるだけの実力があって、ホームステイにだって参加できてしまう。それでもなお「やりたいこと」があるというのだから素直に驚いてしまう。
「ちょっと色々。一番夢中になれることを見つけられたんだ。すごくそれのおかげで毎日楽しいよ」
 彼は人形のような美しい笑みではなく、夢を語る小学生のような溌溂さを持って笑った。
 それから俺と剣持くんは色々な話をした。出身中学や、家族構成。趣味。最近読んだ漫画。課題の提出期限。教師の口癖。意外と意気投合した。自分ってもしかして結構喋れるほうなんじゃないか、なんて錯覚するほどに剣持くんとの話は楽しかった。
 次第に俺は剣持くんがどうしてこんなに話しかけてくれるのか気になり始めた。昼休みの光景。クラスの陽キャ集団の中で楽しそうにする彼。放課後は本来俺のような人間と駄弁るのではなく、部活で練習に励んでいるはずなのである。住む世界が違うはずの彼が、俺にこれだけ構うのはどういうことなのか分かりかねた。俺にとって彼は殿上人だった。お戯れの一つなのか。
 そうではなかった。彼は最初からこちら側だった。どちらから言い出したかは覚えていないけれど、人付き合いが難しい、という話になったとき、剣持くんは昼の陽キャ達とノリが合わず苦労することがある、なんて話していた。まだ五月だ。剣持くんとしては、できるだけ食わず嫌いしないで色々な人と仲良くなるべき時期なのだという。だから自分とタイプの違う人ともつるんでいるのだ、と。
 俺は今まで彼のことを「陽キャ」「運動部」という属性でしか捉えていなかった。こうして仲良く話せるようになり、それらを取り払った時に残る本当の彼の姿は、理想を孤独に追い続ける真面目で活動的な男子高校生だった。
「そういえば、さっき言ってた剣持くんが夢中になってること……って何なの」
 いつの間にか俺の隣にいた剣持くんは、その薄い唇の端を少しだけ上げて答えた。
「うーん、そうだな。教えたい気持ちはあるんだけど、誰にも言ってないことだから、特別に君に教えるわけにいかないんだよね。そういう契約……っていうか約束、してることだから」
 剣持くんの整った容姿、品行方正さ、明るく楽しく学校生活を送る健康的な姿とは対照的なこの発言に、その場ではありふれた相槌を打っていたものの、俺の心の中は荒れていた。
 人に言えないことってなんだ。契約ってどういうことだ。変なバイトでもしてるのか。女みたいな容姿の他クラスの奴が、男でも小遣い稼ぎに売春できるとか何とか言ってたのを盗み聞いたことがある。まさかとは思うが、もしかしたらそういう感じのことなのかもしれない。
 俺はこの時、想像ではあるものの、少しでもその可能性が頭に浮かんだだけでひどく胸が痛んだ。品行方正な美少年の「闇」を勝手に想像し杞憂していたのである。俺は「秀才」の弱みを握りたくて仕方がなかった。その「秀才」があまりに人として優れていたばかりに、自分で勝手に「弱み」を妄想することで心の担保としようとしていた。その妄想があまりに稚拙で行き過ぎたものだったことを客観視できるほど、当時は余裕を持たずにいた。
 剣持くんは、なんて弱くもろい存在なのだろう。時々見せる伏し目が妙に色っぽく見えたけれど、そういうことをしている人間の不安定な情緒が隠しきれていないのかもしれない。あんなに昼休みは楽しそうにしていたけど、それは放課後のそういうことの反動から来るやつなのだ。きっとそうだ。そうに違いない。
 俺はこんなに弱く不確かな存在の剣持くんにとって、何になれるのだろう。……俺の中で答えは明白だった。剣持刀也を支えていきたい。素を見せてもいいんだ、と言ってあげたい。前に進む刀也の片腕になって、一緒の景色を見たい。
 刀也は俺が守る。
   8
 俺が剣持刀也のライバー活動を知ったのは、それから数週間後のことだった。
 俺はディープでもないけど、趣味は明らかにゲームやネットに限定されている、まあどこにでもいるタイプのオタクだ。V       Tuberというコンテンツには、ネットで流行っているものを口コミに流され追いかけていけば、自然と行き着いた。
 初めて画面上の彼を見たときは、これが身バレか、と変に感動してしまった。顔出しして制服まで着ているのだから仕方のないことだ。「やりたいことができた」と語っていたのは間違いなくこのことだろうと確信できた。
 でも、本人には言えないでいた。俺は刀也のライバー活動を神聖視していた。現実で会う剣持刀也と、バーチャルライバー「剣持刀也」は言ってしまえば何も変わらない同一人物なのであるが、彼自身公私の別はわきまえているはずで、どちらかがどちらかを侵食するのはどちらの居場所をも奪うことに繋がる。どちらか一方で常にもう一方の生を遮蔽し続けることにより、二つの人生を成り立たせることができるのである。そこに俺が干渉していくことはできない。彼の親御さんは活動を知っているらしいが、学校の友人Aである俺にそのラインを踏み越えるだけの権限は与えられていなかった。
 配信を見始めて分かったことと言えば、剣持刀也が意外とお喋りで調子のいいキモオタだった……なんて、これはあんまりな言い草だろうか。学校での品行方正な優等生キャラはどこへやら。リスナーからの辛辣な煽りを堂々と受け止め、三倍返しどころか十倍返しするトークスキル。配信のエンタメ性の為なら痴漢された経験でさえネタにしてしまう。肝が据わっている。ロリコンと自称し、ディープなロリコン漫画に詳しい。ネットスラングにも精通していて、何かのコピペを詠唱することだってできていた。
 当然のように俺もバーチャルライバー「剣持刀也」の魅力に憑りつかれた。初回配信から最新の配信までのアーカイブを消化するのに苦労はしなかった。どうせ俺はやることのない帰宅部だ。放課後の時間は誰よりあり余っていた。何より今まで脳死で周回していたソシャゲをやめた決断が大きかったようで、いつしか趣味が配信一本に絞られていた。
 だから数日に一度ある零時からの深夜配信の一時間がとても楽しみだった。あまりに一時間が早く過ぎ去るから、その瞬間だけ時を操られているようでもあった。配信に間に合うように風呂を済ませ、課題を終わらせる習慣が身についた。配信は生活の一部と化していた。
 実はこの時の俺は勉強しながらアーカイブを消化するのにハマっていた。「ながら勉強」は効果が半減するなんて言われることもあるけど、もともと勉強しなかった俺が時間を割くようになった、という変化は大きいと思う。現に成績はそこそこ回復して、小テストで追試を食らうことはなくなったし、中間考査の出来もそこそこに良かった。「中の下」から「中」くらいになれたんじゃないかと思った。
 配信を見ることで、刀也には唯一無二の個性があるのだと知った。一人の男子高校生が常に何万人もの注目を集め、リアルタイムの雑談に何千人もが押し寄せる。一言ツイートするだけで、たくさんのリプが返ってくる。配信後はSNSがファンアートであふれかえり、動画サイトにはMADが大量にアップされる。多くのファンの心を、たった一人の人間が掌握している。魅力に取りつかれた人々は性別を問わず彼のファンになった。
 実のところ、俺は他のリスナーよりもどこか余裕を持って剣持刀也を見守っていた。「剣持くんってそういう所あるんだよな」「これだけが剣持くんの魅力じゃない」……。同じ高校で学校生活を送る剣持刀也を、その中でも特に「素を出した」剣持刀也を俺は知っているんだぞ、という優越感。リスナーが知らない、クラスの陽キャでさえも知らない剣持刀也の顔を知っている、という余裕。今思い返せば、あまりにも一方通行な感情だった。思い込みだった。
 今思い返せばこれはガチ恋にも似た感情で、つまり俺はこの時「ジェームズ」だった。
 刀也、愛してるぞ。
   9
 ここから先話すのは俺にとって最大の事件だ。その前にもう一つだけ言及しなければいけない人がいる。察することも容易いと思う。そう、にじさんじ所属バーチャルライバー、伏見ガクについてだ。
 剣持刀也についてのファンアートで度々登場していたから、名前と顔は早い段階で認知できていた。基本的に女の子だらけのバーチャル業界で、ああいうチャラチャラした見た目の男性ライバーはデビューしたばかりのころからすごく目立っていた。剣持刀也とのコラボ配信において、初めてちゃんと姿を見た。理屈で面白い剣持刀也とは違う、天然で面白いタイプの人なんだと思った。
 普段の配信は朝にやっているらしく、家族全員でテレビのニュースを見ながら朝食を取る習慣のある俺は一度も見たことがなかった。
 ここまでだったら伏見ガクは剣持刀也の同僚の一人、という認識で終わるところだが、問題はここからだ。
 そもそもファンによって作られた動画が所謂「ホモ営業」とかいうやつを取り上げたものだった。剣持刀也と伏見ガクの仲がいいことに腐女子が着目して、二次創作が盛り上がっていたのをSNSで目にしたことがある。
 つまり剣持刀也と伏見ガクは、二次創作がヒットして人気に拍車がかかったコンビなのである。そういう二次創作のほとんどに共通することをまとめると、なんでもできるイケメン彼氏の伏見ガクがイキリ軟弱剣持刀也を可愛がる……みたいな。正直、納得できなくもなかった。
 でも俺は知っている。学校生活で剣持刀也の持つカリスマ性を。腐女子の方々には申し訳ないが、剣持刀也はカリスマだ。美形、文武両道、品行方正のエンターティナーだ。「かわいい受けちゃん」じゃない。
 そう思っていた。
   10
 その日の横浜駅はいつも通り騒々しかった。駅のアナウンスが雑音に掻き消されてしまう。早々に目的の店への用事を済ませ、夕方のラッシュに巻き込まれないよう午後四時には帰るめどを立てておく。
 特にやることもなく、こういう時に暇を潰せる洒落た喫茶店なんて知らないからどこにでもあるようなファストフード店へ立ち寄った。女子高生がたむろする店内をポテトとコーラがのったトレーを持って徘徊し、店内がよく見渡せる一人席を陣取る。
 片手にコーラを持って買ったばかりの参考書の「はじめに」を眺める。易しいと評判のこの参考書は俺が一年の時に特に成績が悪かった分野のものだ。今なら遅れを取り戻せると思ってネットで下調べをし、横浜駅近くにある大き目の書店で購入した。
 その赤と黒の二色刷りが少し見づらくて失敗したかな、と思っていたその時、聞き覚えのある声がした。刀也の声だった。似ているだけかもしれないと思いつつも店内をじろりと眺め回すと、パーカーにスキニーを合わせた普段着の剣持刀也の姿がそこにあった。そしてその隣には、画面で見た通りの伏見ガクの姿がそこにあった。独特の跳ね方をする明るい茶髪に、いつものピアスをじゃらじゃらと。今日はアイシャドウをいつもみたいには入れていないようだったが、男性らしい筋肉質の長身は女子高生(とオタクの僕)だけの店内で否応なしに目立っていた。
 二人は店員の目の前で仲良く並んで大量のハンバーガーをテイクアウトで注文した。恐らく十代の男子が二人で消費する量としては適切、あるいは少し多いくらいだ。店員が手際よく段ボールみたいな色の紙袋に詰め、一つのビニールにまとめた。
 刀也が愛想よく笑って店員から受け取ろうとした瞬間、伏見ガクがその手に手を重ね、するりと袋を奪った。この距離では聞こえるはずがないのに、口の動きだけで「がっくん」と言ったのが読み取れた気がした。
 俺はそれを見た瞬間、倫理やら道徳やらそういうものが抜け落ちてしまって、だらだらすすっていたコーラを一気に飲み干し、微妙に余ったポテトを紙で包んで鞄の中に押し込み、店を飛び出した。
 茶髪の長身を雑踏の中に見つけようと必死に目をこらした。二人は俺がいつも使っている路線へ乗ろうと改札口を通ろうとしていた。そういえば刀也は俺と同じ路線を使っていると聞いたことがある。もしかして今から二人は刀也の家に行くのだろうか。仲が良くてよろしいことだ。
 ……そう、単純に思えればよかった。俺はもうなんだか駄目だった。伏見ガクはファストフード店の袋を片手に下げ、もう片方の手が空いている……と思いきや、その袖ははぐれてしまわぬよう刀也の細く白い指が握っていたのである。怒りにも似た感情が俺の中に起こった。でも、何に対して怒っているのか全く見当がつかなかった。
 これはストーカーではない。帰宅だ。自分に言い聞かせながら、俺はいつも使っている路線へと向かった。
   11
 二人は同じ駅で降りていった。俺の降りる駅はその先だったから、二人の近い距離を車内から見つめることしかできずにいた。電車に揺られるうち、訳の分からない感情は訳の分からないまま冷めていった。
 付き合ってるとかは……ないだろう。いくらなんでもそれはネットに毒されている考えだ。でもあんなに人と仲良くしてる刀也のこと、学校ですら見たことがなかった。二人の関係にどういう名前が付くものであれ、俺は嫉妬してしまうような、そういう距離感だった。
 電車の中でスマホを見ると、刀也のツイッターから通知が来ていた(俺は剣持刀也のツイート通知をオンにしている)。「今日の二十四時から配信します!」。そういえば今日は配信だって事前に言っていた。
 じゃああの伏見ガクは一体何なんだ。てっきりまたコラボでもするのかと思った。もしかして、コラボでもないのに、ただ仲がいいから一緒にいたのだろうか。この時俺は初めて剣持刀也と伏見ガクの恐ろしさを目の当たりにした。と同時に、気分が悪くなった。
 刀也を、剣持刀也を、一番わかっているのは俺のはずなのに。普段は進んで道化の役を買って出ている剣持刀也。本当は真面目な努力家で計算高く最適な立ち回りを誰より早く判断できる人間なのだ。偶に見せる弱い一面も、俺みたいな根暗が受け止めることでその靄を晴らすことができる。明るく元気な伏見ガクの光では彼の裸の心を見ることはかなわない。俺は陰の持つ温かみで彼を守ってやりたいんだ。癒してやりたいんだ。
 車内が少し空いてきたころ、降りる駅のアナウンスが聞こえてようやく思考を一時停止することができた。
 その日の配信はとてもじゃないけどリアルタイムでは見られなかった。次の日にツイッターを見たら雑談とゲームをやる普段通りのソロ配信だったと知って呆然とした。俺だけが知っている、初めての咎人サイレントオフコラボである。
 俺はその場所に立てない。一番近くにいることも許されない。
 伏見、よろしくな。
   12
 それから俺はあれだけサボっていたはずの勉強に熱を注いだ。あの時買った参考書を使い、家で自主学習した。幸いにも俺は自習ができるタイプの人間だったみたいで、その後の模試ではすぐクラスの上位に食い込んだ。
 配信はというと、いちおう全部見ていた。ただ予想外なことに「ながら」やっていたはずの勉強が意外と楽しくなってしまって、配信時間を忘れることが多く、後からアーカイブを早送りで消化していた。
 その日はテストや模試も終わって勉強もひと段落したから、久しぶりに配信を生で見てみたくなった。剣持刀也のラジオ形式の雑談配信が予定されていたので、それを寝る前に見ることにした。なんとなく、少し緊張した。
 配信はいつもの通り少し遅刻して始まった。軽快にトークを始め、コメント欄とプロレスする刀也。深夜だけど家族はまだ起きている。俺は声を出して笑った。電気を消し、暗い部屋の中、ベッドの上に胡坐をかきながらスマホを持ち視聴する。目に悪いのは分かっているけど、なんとなく寝る前はこうやってしまうのだ。
 その瞬間、配信が一時停止した。配信画面の中央で回転する記号が硬直した刀也と「ァ!」で埋まるコメント欄を隔てる。一時停止した刀也はいつになく整った表情をしていた。配信を始めたばかりのころは半笑いや変顔で止まってしまうことも多かった。しかし、回を重ねるうちに彼の身体はアップデートされていった。その美しさを常に保つことのできるよう仮想の細胞を日々更新しているとも言える。虹彩の色が綺麗だ。口角が少し上がっていて、何か言いかけたように半開きになっている口元がどこか扇情的に思えた。
 ここでキスしたら刀也はどんな反応をするのだろう。もちろん液晶の向こうにいる刀也は何も感じるわけがない。答えは分かっているのに、制御するという考えには至らない。俺の唇が刀也の白い肌に惹かれて距離をじりじりと詰める。普段はテンポよく軽口を叩くその唇はどれだけ柔らかなのだろうか。
 キスしたら液晶の味がした。冷たく平坦な無機物に、ひび割れた自分の唇が跳ね返される。
「あ……止まってました? 虚空? ははは、また僕が虚空の王であることが証明されてしまったんですよ。分かりますか? んふふ、はい、じゃあ次行きましょう。次行きますね……次は……」
 刀也の涼やかな笑い声が火照った頭に心地よく響く。リスナーからのメッセージはいつも通り気持ち悪い歪んだ内容で、笑えた。いつも通り「草」ってコメントしたかったのに、今の俺はスマホに触ることができない。液晶に付いた自分の唾液が配信画面を汚している。水滴がレンズの役割をして刀也をRGBに分解する。
   13
 どれだけ時間が経っただろう。堪らなくなって端末の電源ボタンを押し、画面を強制的に暗転させた。刀也の声はもう聞こえない。黒い画面に映るのは、汗ばんだ髪が額に張り付く眼光のギラついた小汚い男。たまらず部屋着の袖で画面を拭う。
 何度拭ってもその男の姿は消えない。ティッシュを引き抜いて力を込めながら画面を擦る。息が上がる。何度擦っても唇に残った液晶の味は消えない。

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