ほんとにこんな人いるんだ。
僕は思わずそう口に出してしまいそうになった。正直に言えばぎょっとしたのだけど、なぜか目を逸らせない。僕の固い眉間には皺が寄っているのに、視神経はその先に引き寄せられてしまう。それくらい、なんだか絵になる光景だったのだ。
彼がこちらに気付かなければいいと思った。彼とは……卯月コウのこと。僕の後輩。僕の同僚。僕の……何? 何なんだ?
ここには窓が無い。光源なんて青白い蛍光灯の無機質な固い光しかないのに、彼の柔らかな金髪には美しい光輪が見えた。儚いまつげは下を向いて瞳のペリドット色にはハイライトすら入らない。薄い皮膚から血管が透けてしまいそうで、小さな口の中へ次々に入り込んでいくのはきっと……白い糖衣のかかった錠剤だ。透明な水がごくりと大量のそれらを喉奥へ流し込んで、彼はゆっくりと目を閉じて静かに壁に背中をあずけた。
僕はどのくらい彼を見ていたのだろう。鈍い頭痛が僕を現実に引き戻した。
僕らバーチャルライバーは大人数でのコラボや案件、また3Dでの撮影が必要になる時なんかは、家からではなく事務所の契約しているスタジオへ移動して収録する。スタジオは首都圏を中心に何軒かあって、外見ではまったくそれらしくは見えない建物の中にある。
今は情勢として動画配信をする人も多いから、こういうレンタル撮影スタジオというのは都内だけでもたくさんあって、その中でも僕らが使っているのはバーチャルな存在が安心して使うことのできる精査された一部のスタジオだ。選定には複数の機材を配置できるかという問題もあるが、まずどの現場であってもセキュリティを重視されていることは僕らもよく分かる。見た目が分かりにくかったり、出入口が複雑な構造をしていたりするのだ。事業がまだ小さかった頃は驚くくらい簡素なスタジオしか借りられなかったけど、会社全体が大きくなってからは複数のスタジオを目的に応じて使い分けている。
僕は誰がいつどこのスタジオにいるとかをまったく意識しないで出入りしているので、他のみんなのように手土産や配りやすい袋菓子をわざわざ持参することもない。先輩ぶっているとかではなく、配る人は配るし、配らない人は配らないというだけだ。他のライバー同士で頻繁に連絡を取ったり、全体連絡をきちんと確認して他の進行中プロジェクトについて察していれば、いつ誰と会う可能性があるとかも分かるだろう。でも、僕は誰かと会う可能性があるからといって仰々しく挨拶をしにいったり、ちょっかいをかけるタイプではない。にじさんじにそもそもそういう社交的な人が少ないのもあってか、収録や打ち合わせ以外で単独行動をとっても全く問題が無いのだ。だから、スタジオで共演者以外の誰と鉢合わせるかなんてまったく知らなかった。
色々な意味での安全のために、控室で食べる食事などの買い出しは自分のマネージャーを含む様々なスタッフさんにお願いすることになっている。収録中とその前後の決められた時間帯はスタジオから不用意に出られないようになっている。だから必然的に控室でなんとか時間を潰すことが多い。
今日の控室では共演者が対戦ゲームを持ち込んで遊んでいたり、僕の知らない話題で盛り上がっていた。僕以外、デビュー時期が僕より一年以上後の人たちばかりだ。彼らだけで盛り上がることはあっても、僕はその場にいなくても別にいいかと思ったりすることがある。先輩ぶっているとかではなく、僕はいつも単独行動が多いだけだ。電子書籍で集め始めたちょっと憂鬱な展開の漫画を読んでリハーサルの順番を待っていた。
今日はスタッフから出演者全員に黒ウーロン茶を差し入れでもらったのだが、なぜか今日はそれが身体に合わなかったのかもしれない。めまい。吐き気。鈍い頭痛。僕は防犯上の理由で窓のない廊下へ一人で移動し、立ったまま頭痛薬を水で飲んでいた。外のすっきりと晴れて乾燥した空気を吸ってリフレッシュしたかったが、外に出るのはできるだけ避けたいため、じらつく青白い蛍光灯の光が明滅するひんやりした廊下に出ることで精いっぱいだった。
睡眠不足かもしれない。眠りの質がきっと良くないのだ。良い睡眠が僕のパフォーマンス維持には必要不可欠なのに。黒ウーロン茶が濃い目のものだったから、カフェインかタンニンで珍しく酔ったのかもしれなかった。酔い止めを飲むよりはとりあえずいつも携帯している頭痛薬が一番だ。処方箋だから胃を守る薬も用意されている。それらを同時に飲み、とりあえず神経を休めるために静かな廊下で座れる場所がないかどうか徘徊していた。
別の控室の前にも誰か人がいた。首から下げる関係者用のパスの色を確認して、スタッフではないと気が付いた。よく知っている、はずの、顔だった。
卯月コウが同じように、なにかの薬を飲んでいる。しかも、大量に。
「え、剣持くん。こんにちはー。お疲れ様です」
大量に錠剤を流し込んだ後、気配に気が付いたのか、コウは振り向いた。目を合わせるのが苦手なのか、僕の顔を見ないで、焦点の合わない目をして、ふわふわとした挨拶をする。
「お、おう。うづこう。久しぶり。ど、どうしたの」
何も見ていないふりをして受け答える。手のひらにさっき飲んだ薬のシートの角がちくりと刺さる。
「いや、ふつうに。収録があって」
それはそうだ。
「……僕も別の企画の収録だけどさ。うづこうが廊下にいるとは思わなくて」
錠剤を小さい瓶から手のひらに二十以上は出して、ペットボトルの水で流し込んでいるのが遠くから見えたのだ。どんな市販薬でも、それだけの量を要求されることはないだろう。一錠あたりの容量が少なめに作られている子供向けの薬を飲む場合でも、流石にそこまでは飲まないはずだ。
オーバードーズ。アンダーグラウンドな嗜好。そして、自傷行為。どちらにせよ、明らかに心配である。なのに、僕は見て見ぬふりもできなければ、知らないふりをしてそれとなく気を遣うほどの貞淑さも持ち合わせていなかった。いまだに鈍く響く頭の痛みの中で、僕は言葉を少しずつ集めていった。
「何してたか……見ちゃって、その、ごめん。具合悪くなって……ない……か?」
コウは怪訝そうに僕を見つめる。やっと目が合った。
僕のよくないところ。それを見られている気持ちになった。
卯月コウは僕にとって、いつまでも「後輩」なのだ。彼がデビューしたのは僕と同じ年。半年も離れていない。とても近い。同じ時期のオーディションを受けて、デビュー時期が違っていただけと聞いたことがある。卯月コウは業界の中でもだいぶ先輩のはずだ。なのに、僕はいつまでも接し方が分からない。彼のことを知っているはずなのに、何も分からない。
こういう時になんて言葉が出てくればいいかが分からない。薬はそんなじゃらじゃらと出して飲むものではないと注意すればよかったのか。いや、悩んでることがないか聞いたほうがよかったのか。見て見ぬふりは正解だろうか? 僕の持ちうる先輩としてのコミュニケーションセンスがこいつの前では意味をなさない。
というか、基本的なコミュニケーションの方法すらもっと自省を要するかもしれない。僕がとても興味を抱く相手や、場を回すために情報を集めて分析した相手には言葉を引き出すための言葉が無限に出てくるのに、卯月コウの感情を先回りして感知し導いたりする才能はない。これはきっと対・卯月コウに特有の現象だと思う。僕には年上の後輩がとてもたくさんいる。未成年としてバーチャルをやるのは色々大変なのだ。後続の人ほど成人しがちである。そういう人たちに対しては大人として尊敬する気持ちが勝ってしまうから、年下という立場でボケを投げたり自然と最適な言葉が見つかるのである。僕が末っ子気質と視聴者にツイートされるのもこういう所があるからだろうなと思う。
年下の後輩である卯月コウは僕の中でだいぶふわふわとしている。うさぎとか、モルモットとか、チンチラとか、そういう類の存在だ。かわいいなあとは思うけど、なでたり、つんつんといじることしかできない。小動物は時折、哲学的な生き物に見えるものだ。表情が変わらない分、じっとしていると何か高等な思索を行っているように思えてしまう。そんな生き物にはどうやって人の言葉をかけようか悩む。卯月コウもそういう所がある。
卯月コウがかわいらしい小動物と違う点としては、彼が僕のいないところで、例えば配信の中で、僕を面白がって一方的に笑ってきたりするところだ。僕は風の噂ですべて知っている。例のカップリング妄想であるとか。ハチャメチャなネゴシエーターになったつもりはない。
でも、こうやって顔を合わせているとそんな素振りはなくて、とてもあたふたとしていてやっぱりふわふわしている。汗の絵文字がぴょこぴょこと飛び出ているかのように、目をグルグルさせているように、とっても慌てていて、なんだか僕はいつも寛大な気持ちになってしまう。焦らなくていいよ。自分のペースでいいよ。待ってるよ。
「け、剣持くん……?」
コウは半笑いといった顔をしてこちらに困惑の声を向ける。
「え、何の話だっけ」
その半笑いの意味が捉えきれなくて、一瞬にして言葉が見つからなくなってしまった。
「ええ……? こ、これの話でしょ? これ」
コウはそう言って小さな透明の瓶を軽く振った。銀色のアルミ素材の蓋がついていて、中の錠剤がカラカラと音を立てる。
そうだ。その薬のことが気になっていたんだ。危ないものだったら、それとなく注意するとか、心配したりしよう。それがいいはずだ。
「これ、ラムネ。ヨーグルト味の。今から収録だから、ブドウ糖でブーストしようと思って」
「ええ?」
「え、心配させちゃったかも」
はは、と眉を下げてへにゃへにゃと笑うコウを見て、僕はしばらく顔をひきつらせていた。
「ま、紛らわしいなあ……」
「普通、一粒ずつ食べるじゃないすか。でも一気にいくと、こう、気合入る感じするんだよね」
「……分かるよ。ミントのタブレットで僕もやるから。テストの時とかそれやって周りビビらせるんだよな」
「剣持くんもかー。うわー。でもやってそー。だと思った」
「うづこうの中の僕、なんなんだよ。また勝手に妄想してるだろ」
「俺って結構イマジナリー剣持くんの解像度高いと思いますよ」
「いや、結構昔の知識で太刀打ちしてるところあるだろ。非公式wiki見ろ」
コウは「意外と俺達、お互いのこと知らないとこあるじゃないすか」と言いながら、水を口に含んだ。少し緊張する言葉だ。僕も水を飲んだ。
「意外とというか、そもそも絡みらしい絡みがないからね。表に出てる以外だとライブの練習とかだし」
僕の人脈はたいてい僕から声をかけることが少なくて、何かのお誘いに乗ったり、指名されたり、ファンが求めているものを提供したいという気持ちで進めていくものが多い。
「まあ、これが……『剣持刀也と卯月コウ』らしいのかなぁ……。なんて。へへ……」
卯月コウの笑顔がどんどん引きつっていく。また目を泳がせて、何か話題を探しているような表情をしている。きっと焦っている。
僕は卯月コウとどうなっていきたいんだろう。目の前の神経質な小動物のことを救ってあげたい気持ちがあるのは確かだけど、それって僕からの一方的な救済じゃないかとも思う。きっとそれじゃダメなんだ。僕が求めているものだってあるはずだ。それって何だろう。
「え、剣持くん。ごめん、なんか変なこと言ってた?」
「い、いやいや。全然。こっちこそごめん。ちょっと僕、頭が痛くて廊下に出てきたから。ぼーっとしてるみたいで」
「えー。心配っすよ。薬飲んだ?」
「廊下で飲んだよ。みんなに心配かけたくなくて、楽屋の外で飲んだから。まだちょっと痛いけど」
「頭痛は要因によって飲む薬違うみたいだから、あんまり改善しないときは神経外科とかオススメするよ。MRIとってくれるし」
コウは緊張性のもの、偏頭痛、重大な病気の兆候としての頭痛について一通り説明してくれた。僕はそういう話を聞くのが好きだから、自然と相槌を打ちながら聞き入ってしまった。
「詳しいな……」
「身体弱いからねえ。配信でもよく言うんだけど結構病院行くんだよね。にじさんじの病弱王を剣持くんと競ってるかもしれない」
「正直そうかもなあ。僕は風邪引くたびにせきがすごく長引くから」
「まあ病弱ってワードは俺らのコンビ名に入れたくないけどなあ」
「ふふっ。それはそうでしょ……」
コウの中ではまだコンビ名を考えていたらしく、さあさあ果たしてどうしようという気持ちになってきた。
「まだ頭痛い?」
「……あ。そうでもなくなってきたかも。薬が効いてきたのかな」
「収録前なんでしょ。あんまり無理……しないとは思うけど、いちおう。病弱仲間として忠告するわ」
「サンキュー。まあ年上の後輩のみんなと一緒だからあんまり疲れないとは思うけど、迷惑かけないようにするよ」
「め、迷惑かけないようにとかじゃなくてさ。剣持くんには元気でいてほしいから」
「どうも。気遣いありがとう。また何かで一緒になったらよろしく」
「うん。じゃあね」
卯月コウは最後、目を合わせて僕を心配してきた。柔らかく微笑んで、じゃあね、だって。背を向けて、僕は楽屋へ戻っているはずなのに。頭痛も収まってそろそろ収録モードにならないといけないのに。卯月コウと僕とのこの簡単な言葉だったはずの関係を、どうにか……かき回したいって、思ってしまっている。
でもどうしたらいい。楽屋へ戻ると、みんなが軽くあいさつをくれる。いつもの剣持刀也に戻ってあいさつを返した。でもそれは外側だけだった。僕の皮膚の中にはまだコウがいる。なんて幻覚だろう。コウの笑顔と戸惑う顔と目を逸らしながら言葉を選んでいる顔が……僕の中から出ていってくれなくて、また頭痛がぶり返してきた。持ち歩いている薬は合っていなかったみたいだ。こうなったら神経外科か。
終