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suidosuiの小説まとめです (NSFWはここにありません)

押し潰されるイヴ(後編)

2021年春の #にじそうさく05 にて初めて出した同人誌「押し潰されるイヴ」のweb再録です。
たくさんお手に取っていただき、ありがとうございました。

あらすじ

月ノ美兎と剣持刀也のSFアドベンチャー。
バーチャルリアリティ技術「イヴ」のPR配信のため海外へ飛んだ二人。
普通のVRとは異なり、触覚のためのデバイスや脳への干渉も含めた没入感の高い体験ができるという。
しかし「イヴ」の世界の脱出ゲームをプレイする生配信中に、二人はバーチャルの中に閉じ込められてしまう。
「イヴ」は人工知能としてとっくにシンギュラリティを迎えており、二人の「てぇてぇ」に関心があるといい放つ。
二人はなかなか解放されることはなくそのまま幾年もの年月が過ぎてしまい、とうとう二人で宇宙の終わりを目撃することになる。
月ノ美兎とは、剣持刀也とは、バーチャルとは、リアルとは。
恋愛要素は入っていません。メタフィクション要素はあります。
31,884文字あるので、だいたい1時間くらいかかります。
一気に読むのは大変だと思うので、こちらは後編です。(前編はこちら


 だいぶ上まで来てしまった。剣持刀也は足元に目をやり、はるか遠くに輝く美しい青い球を視界に捉えた。人工衛星が撮影した画像を張り合わせて作ったネット上の地図アプリと同じ感じだ。
 上昇している間、下を見たらやはり建物は口の字型をしていた。でも本当に奇妙だったのは、口の字型の建物は上から見るといくつも連なっていて、まるで迷路のように複雑な形を作り上げていたことだ。それは一つの大きな島を埋め尽くしていて、もっと上昇したら綺麗な青い海に囲まれているのが分かった。あの建物の中ひとつひとつに空間があり、緻密に設計された触れられるオブジェクトがあるのかもしれないと思うと膨大なデータ量を想像してしまった。
 コメントはストップしていた。メニューを開いて遡ると「これ終わったってこと?」「声聞こえなくなったし終わりでは?」「今来たらゲームクリアで草」「着席させてくれ」「おつみと~」「切断されたの心配だけどスタッフから終了ツイートされてるしいいんじゃね」「おつあご」「杞憂民は終了ツイートくらい見ろや」とのこと。真実を知っているのは僕らだけなのか?
 地球の周りを公転しているのは月である。無意識のうちに探していたが、やっと地球の陰から姿を現した。太陽の光を反射し、地球に潮の満ち引きを与える衛星。とても大きく感じた。
 でも、月以外の星は相変わらずローポリゴンの四角い点に過ぎなかった。そのことが作り物の世界にいるという認識にさせた。いつの間にか上昇が止まっていて、自由に動けるようになった。
「ここ宇宙ですか」
 近くをくるくると周っていた月ノ美兎に問いかける。
「まあ、そうですよね。よく作ったもんですよ」
 本当に面倒くさそうな顔をして言う。もう配信は終わっていて、コメントもストップしているからできる顔だ。「月ノ美兎」は本気でそんな顔をしない。するはずがないのだ。
「ほんと、こんなヤバい案件今までなかったですよ。訴訟とかしなきゃいけないし、もう最悪だよ」
 地声のトーンで話すと、やけにいつもより低く感じられた。「剣持刀也」はこんな声じゃない。
「なんていうか、その、ナイフ突きつけられている感覚になるんですよね。いつでもあちら側はわたくし達に攻撃できるわけなんで」
 確かにその恐怖はある。先ほどから足が地に着いている感覚が薄れてきているのを感じる。クレーンで持ち上げられているのか? でも、脳の認識にまで干渉されているのだから何が起こってもおかしくないのだろう。
 最初から怪しい案件だとは思っていた。怪しすぎるあまり、運営がどうしても進めたがるのはよっぽどのちゃんとした理由があるのだろうと深読みしてしまったくらいだ。あんまり自分が企業活動に貢献したいという意識はなくて、定例面談の時に名前を出された先輩の名前に過剰反応してしまったというのが正しいだろう。僕と同じく、めったに案件を受けないあの人、月ノ美兎。彼女にはなんとしてでも出てもらうと面談で言われた。あれは挑発だったのか? とにかく委員長のことが心配で、運営がどうしてもやるっていう様子だったから、それならコラボ配信として僕を付き添わせろと懇願した。思い上がりにも程があるのだが……。そうしたらこんなことになってしまった。大人というのは簡単には信用してはいけないものだと今は淡白に思った。
 奇異なことには慣れっこの委員長とはいえ、流石に参ってきているようだった。僕らの脳に干渉できるという説明を信じるならば、今目の前にいるお互いのことも心のどこかで非実在存在として見ているかもしれない。だから、ここで重要なのは自分が本物であると信じてもらうことにある。協力することが何よりも求められるのだ。
「助けが来るのをとにかく待ちましょう。きっと大丈夫だから、ね?」
「は、はい。いやでも、ほんとにわたくしこの世界がもう無理なんですよ。だって、剣持さん本物ですか?」
 彼女も同じ思考回路だったようだ。話が早い。
「まあ本物ですけど、証明しようがないですからね。……その、とりあえず状況をお互い整理して、この空間を探索してみませんか。宇宙ってめっちゃデカいけど、それをそのまま再現するのは技術的に難しいと思うし、どっかに限界があるかもしれないし」
「紅茶の匂いがしたんですよ」
「え?」
「最初の、洋館のステージでさ。紅茶を準備してるとき、匂いがしたんですよ。ポットの温度も感じられて。これって、脳に干渉されて認知が変わってるという仕組みは理解できるんですが、バーチャルに飲みこまれているみたいな感じがするんです」
 バーチャルにリアルが浸食されて境界が分からなくなっていく。あのステージで取れ高を狙って皿を割ったのも、あまりにも精巧に作られているせいで僕でさえ躊躇ってしまった。分からない話でもない。
 それでも今はこの人に不安な思いをさせてはいけない。僕なんだから。
「僕もお皿割った時、内心すごくビビッてました。あはは。なんか条件満たせば出られるみたいなこと言ってたし、僕が能天気なだけかもしれないですけど気楽にいきましょう」
「うん」
 力なく笑う委員長。元気づけてあげたいのに言葉が見つからない。口からでまかせを並べ立てるのならこの業界で誰にも負けない自信のある自分でさえ、無力を感じた。
 足の着いた感覚がないここでは、自分の念じた方向に移動することができるらしい。僕より早く操作に慣れた委員長は、メニューにいつの間にか追加されていた時間操作を覚え、月の公転を早めてすぐそばまで近づけた。彼女は大きく輝く月へと飛んでいく。僕はそれについていくだけだ。「イヴ」の月ノ美兎のモデルはいつもと違う感じがする。自分では分からないけれど剣持刀也もそうなのだろう。実在感がすごいというか、例えば制服もきちんと縫い目があるし、物理法則に従って重たい生地は速く、軽い生地はふんわりと動く。髪の毛一本一本が肌に触れる感覚が分かる。
 だけどモデルが多少変わっても、バーチャルライバー月ノ美兎は月ノ美兎だ。天才肌の努力家で、アイドルのようだと思った次の瞬間には狂人と化している彼女。誰もが憧れるバーチャルライバーの第一人者の一人で個性豊かなライバーが属する事務所をまとめる委員長だ。そして他でもない、今の形の「剣持刀也」を産んだ憧れの先輩でもある。
 月はカラカラの白い砂漠のような場所だった。彼女はそこに立って、風に髪をなびかせている。月に降り立った人類が国旗を地表に刺していたあの映像を想起した。
「あの時お酒飲んだのが良くなかったかなぁ……」
 言外の意図をそれとなく汲み取った。
「僕がケーキ食べてた時、あんたビール飲んでましたからね。肝据わってるにも程があるだろと思いましたよ」
「ちっちゃくてかわいいチョコレートケーキでしたね、そういえば。ビール飲んだのはちゃんとスタッフさんに許可貰ってますよ」
「イヴ」が知るはずのないオフでの出来事についての記憶を確かめ合う。不安で仕方がないから。それでも、目の前の彼女が偽物の可能性は消えない。いずれにせよ無事でいてほしい。
「とにかく、状況を整理しましょう。今僕らは人工知能の不具合でここに閉じ込められています。僕ら側から外部に発信できるかどうか、まず試してみましょう。そしてできるなら、イヴの提示した『てぇてぇ』の実例を示すやつをやってみましょう」
「『てぇてぇ』はできればやりたく……ないな」
「まったくですね」
 メニューのジェスチャーを試してみる。全てのタブをデバッグするように片っ端から開く。できる操作は全部やる。配信後のコメント欄にコメントしてみる。ブラウザから通話アプリを開いたり、ツイッターを開いたり。それでも何の変化もなかった。アクセスがブロックされているような挙動だった。
 月ノ美兎が大きくため息をついた。
「やってらんねえよ! インターネットを取り上げられたらもう終わりじゃん!」
 月の表面で彼女は体育座りをして、次にあぐらをかいた。
 目の前にいるのはかつてない存在感の月ノ美兎なのに、だるそうな声色で現状に不満を漏らすこの人は「彼女」である。この些細な違いが、「よくできた3Dモデルの相手とオフの会話をする」という奇妙な体験の継続によって大きな違いへと感じられていった。違いを意識すればするほど頭が混乱していく。頭痛がする。かき回されているような激しい痛みでまともにものを考えることすらできない。
「剣持さん、頭、ぐちゃぐちゃになってるよ!」
 怯えた声で指摘される。
「痛い、痛い、あ……。なにこれ!?」
 二〇二〇年夏の百物語配信で、僕は委員長に配信ソフト上で立ち絵をいじられてしまい、頭部がぐちゃぐちゃのめっためたのアニメーションGIFにされてしまった。渦を巻くように頭部がひねられて、元に戻り、また逆方向にひねられる。それが、今の僕にも起きているらしい。
「なんかまずいことしたか?」
「何か変な考え事でもしてました?」
「ああ、なんか今の状況をみて、あんたの見た目は月ノ美兎なのに、言動が完全に素に戻っちゃってるからよく分かんなくなっちゃってるなあって思ってました」
 痛みを堪えながら言う。
「あー、これは勘ですけど、イヴの中では、わたくしはわたくしとして存在しないといけないのかもしれません」
「つまり……僕らは常に月ノ美兎・剣持刀也として振舞い、そう認知する必要があるってことなの?」
 わたくしはわたくしとして。僕は僕として。「彼女」ではなく「委員長」として。「俺」ではなく「僕」として。
「あ、ほら、ぐちゃぐちゃ治まってきましたよ」
「ほんとだー。すごーい。なに? これ」
 オフの会話は避け、あくまでも「月ノ美兎」と「剣持刀也」として振舞わないといけないということで合意した。その後、同じようなグリッチがかかることはなくなったが、常に配信のテンションを保たなければいけないというプレッシャーは確かに存在し続けた。
 異変に気付いたマネージャーなどがすぐに助けてくれるだろうと予測して、この時の僕はまだ僕でいることを軽い気持ちで了承していた。しかし。ジェスチャーで起動したメニューの下部にある日付の数字が変わっても、助けは来なかった。
 口には出さなかったが、「てぇてぇ」をする気にはお互いならなかった。どちらも作為的な「てぇてぇ」を望まなかったし、それで突破できるはずがないと考えていた。試しにそれっぽいやり取りをしてみたこともあったけど、イヴは無反応でただただ恥をかいただけに終わった。
 一週間なら待てると僕は確信していた。忍耐力はあるほうだし、それまでには何かしら動きがあるはずだから。しかし一週間経っても僕らは僕らのまま、宇宙を揺蕩っていた。不思議とお腹は空かなかったし眠くもならなかった。このことから、スタッフは完全にいなくなったのではなく、僕らを移動させるか何かして何かしらの実験設備と接続しているであろうことが分かった。
 本物の宇宙だったら天体が僕らの周りを囲みさぞ美しかったろうに、安っぽい宇宙柄のここはどこをみてもただの白い点が浮かんでいるだけだ。僕らは月を離れて、遠くへ旅をした。何日かかけて白い点に限りなく近づいてみたけれど、それは厚さを持たない長方形の巨大な平面のポリゴンで、特にそれといった特徴のないものだった。目印になるはずだった太陽が描写距離の問題で消えてしまい方向感覚が分からなくなっていったけど、もうどうしようもないことだし諦めて太陽系脱出を図った。すごい速さで飛んでみた。どこに行っても白い点があってうんざりした。
 三週間経った頃には、僕らはアイテムで遊びはじめていた。あの時メニューから懐中電灯を取り出したみたいに、今まで触れてきたものがこの空間では自由自在に取り出せる。まるでボーナスステージだ。キッチンをくまなく探索しておいたから、僕らは毎日ティーパーティーができた。不思議の国のアリスみたいだ。毎日が記念日、なんでもない日おめでとう。紅茶もゼリーもケーキも、口に入れて消去することが可能だと知った。食感はしたけれど、味はしなかった。腹も膨れなかった。
 しかしその遊びは一か月経った頃にもはや廃れてしまった。長期入院なんかをすると、ずっと同じ建物にいるせいで閉所恐怖の感覚になることがあるみたいだけど、この広大な宇宙を目の前にしてもやはりそういう不快な気分になることはあったのだった。
 僕はケーキを大量に取り出し、ナイフを縦に振り、細かく刻んでいく一人遊びをした。このまま死んでしまうことも可能性の一つとして考えながら、単純な作業を極めていくことで精神を保った。正直に言えば死への恐れはない。知らないだけかもしれないが。足るを知る。何もない状態と比べたらまだいいほうだ。だから泣くこともなく耐え続けることができた。ここに閉じ込められたのが僕だけだったらもっと平気だった。僕は僕自身をいくらでも騙すことができるからだ。
 でも、僕に隠れて涙を流す彼女に、どう声をかければいいか分からなかった。並走していたある時、僕から離れてメニューから取り出したテーブルやら食器棚やらを使ってビーバーの巣みたいなバリケードを作り始めた。立て籠もるようにしてじっと動かない月ノ美兎は鼻をすすっていた。
「その遊び楽しいですか?」
 ある時まぶたを赤く腫らした彼女はごそごそとバリケードから出てきて僕に言った。そんな表情の差分は初めて見た。
「ああ、何かしていないと落ち着かなくて。ただの暇つぶしです」
 僕はピンク色のケーキを取り出す。手先を細かく動かし、ナイフを小刻みに振るって薄いスライスのようにする。散った欠片を強く払い、宇宙の彼方へと飛ばしてしまう。もう何度やったことだろう。かなり上達している。
「わたくしもやる。見てて」
 月ノ美兎はケーキを取り出した。ナイフを片手に持ち、腕を肩から動かして縦に振り下ろす。手足に当てたりしないか不安になる。無事にケーキに命中したはいいものの、ここはバーチャル空間の宇宙で、物理演算がはたらいているため、強い衝撃を受けたケーキはスライスされることなく下方のどこかへ飛んで行ってしまった。
 もう一回やり直そうと彼女はアイテム欄を連打した。すると巨大な緑色のゼリーが数十、いや百を超える量出てきた。
「大丈夫、ですか」
 頭からつま先までゼリーまみれの月ノ美兎にたずねる。
「あはは……」
 もう流石に彼女も参ってきている。でも僕にはきっとどうすることもできないだろう。
 ゼリーが時間経過とともに消えた後、彼女は初めて僕の方を見て泣いた。泣く差分に切り替わったというよりは、本当に、一瞬だけ苦しそうな顔をして、その後透明な涙が頬に沿って流れ落ちるような、そんな自然な泣き方をしていた。僕もずいぶんとイヴに取り込まれた認知になってきているな、なんて自嘲した。
「こんな、こんなポリゴンで作られた身体で、ずっとこのままなんて、頭おかしくなっちゃうよ」
「僕はもう、麻痺しているみたいなので大丈夫ですよ。正確には大丈夫じゃありません。もう正気ではないみたいで……平気ぶっているけど、本当はもう考えることをやめてしまったんです。だからなにも怖くない。ね、だから、考えているあなたの方がずっと立派だ。泣かないで」
 彼女は泣くのをやめなかった。
「……ねえ、もうバーチャルなんて嫌だ。わたくしでいることを、休んでも、いいでしょう」
 あの頭のぐちゃぐちゃを続けてどんな影響があるか分からないから、僕らは僕らのままを数か月続けてきた。ちょっとでも戻そうとすると痛みが走るからである。でも、この人の涙を止められるなら、二人であの姿になったって構わないかもしれない。
 でも彼女は「わたくしは、わたくしは」と何度も言って、ポリゴンの身体でいることを強くイヴに誓うのだった。見ていられない。でも、どうしたらいいか分からない。
「ごめんなさい。なんて言えばいいのか分からなくて。こんな時、ちょうどいい嘘でもなんでも言えればいいんですけど、頭が凝り固まっちゃって」
「嘘……ね。そういえばね、剣持さん、配信者は誰にもバレない嘘を必ず一つはついているんですよ」
 月ノ美兎は赤くなった目で僕を見据えて言う。それは見たことがないくらい強いまなざしだった。呼吸するのを忘れた。
「……それは配信の自分と、オフの自分の差です。わたくしだったら、オフではもっと声が低いし、はきはきしてないし、大勢の人の前に立つのは怖い。でも、配信だったら聞き取りやすい話し方をするし、堂々と振舞うんです。みんなはわたくし達のことをキャラクターとして消費する。配信に載せられた部分だけをそれぞれが読み取って、理想の形に解釈する。嘘と本当の自分が同じになったのなら、本当の自分が切り刻まれてしまうでしょう?」
「剣持刀也」を続けるためには、どんなにコアなファンでも気付かないレベルの小さな嘘をつき続ける必要がある。それが嘘と本当の自分を両方守るための最良な手段だ。どんなに好意的な解釈であっても、心の奥底を覗き込まれるのは苦しい。だから、嘘と本当の自分を両方用意しておかなければならない。
 麻痺していた頭が正常を取り戻してきた。
 だが、この仮想世界では話が違う。僕らのすべての言動は「月ノ美兎」そして「剣持刀也」を形作る。嘘はつけない。すべてが本当となったこの世界で自我を保つのは困難である。僕は、「俺」のことを守らなくてはならなかったのだ。
 涙を眼に溜めた彼女は言う。沈黙の宇宙の中で溜め込んだ「言いたかったこと」がとめどなくあふれ出てくるみたいで、話題はくるくると変わっていく。
「バーチャルだからこそ、新しい表現ができるというのはたくさんお仕事をしてきたから分かります。それでも、この最先端技術の中でさえ、できることは限られている」
 月ノ美兎はケーキとティーセットを取り出した。そしてそれを掴んで放り投げた。
「リアルの……謎ノ美兎のインパクトに勝てるバーチャルはここにはまだないみたいですね」
 この最新鋭設備の中でさえ、バーチャルはどこまでいっても作り物、偽物にすぎない。アフタヌーンティーだってスクリーン上のライブの演出だって、3Dモデルの持つ計算上の動きとしての制約からは逃れられない。それが今の彼女の考えだ。自分を閉じ込めるバーチャルへの嫌悪。それを露骨に感じる口ぶり。
 でも、それなら。
「僕が委員長と出会えたのはあなたがバーチャルだったからです」
 口をついて出た言葉がこれだった。こんなの何の慰めにもならない。まだ、こんな言葉じゃダメだ。分かっているけど、覚めたばかりの頭ではこの言葉がまず浮かんだ。彼女の愛したバーチャルの世界を、もうこれ以上否定しないでほしいのに。どうすればいい。何を伝えればいい。
「剣持さんとこうしていられるのはわたくしがバーチャルだから、ですよね。それはとても嬉しく、そして誇らしく思っていますよ。……ありがとう。でももうなんか、だめなんです」
 月ノ美兎の涙は止まらない。「イヴ」がバーチャルを諦めようとする彼女の態度に反応した。ノイズが彼女の身体を一瞬切り裂いたのである。僕は少し考えて、言った。
「委員長、さっきの言葉は撤回させて下さい。僕らの身体が、作り物で、偽物で、今のあんたが本物の自分じゃないって言うなら」
 僕は月ノ美兎のそばへと飛んで行った。そして、彼女の顔を見上げるような位置で止まり、震える彼女の小さな手を胸の前で握りしめた。指を絡めた。五本の指のポリゴンが予定されていない動作によってぐしゃぐしゃに潰れる。それでも強く手を繋いだ。
「僕があんたと出会えたのがバーチャルのおかげだったとしても、あんたがバーチャルだからいつも一緒にいるわけじゃない。それを分かってほしいんです。分かってくれるなら、こんなバーチャルをいくら否定しようと構わない」
 驚きで涙が止まって、それでもまだ大粒のしずくをたたえているうさぎのように赤い眼。僕は目覚めたばかりの頭で言葉を探しながら、ゆっくりと話す。
「初めて月ノ美兎の配信を見た時からずっと、あんたがバーチャルの外側で、何を考えている人なのか、知りたいと思わなかった日はないです。それに、僕のことをどう見ているのかだって、つねに気になる。あんたを全部把握できるなら……したいぐらいだ。作り物のあんたも素のあんたも全部知りたい」
 固く閉じていた口元は柔らかくゆるみ、微笑を浮かべている。
「だからね、僕はあなたがバーチャルの外側にいても、もし仮に僕が永遠に外側に行ってしまうことがあったとしても。あんたから目を離すつもりはないです」
 月ノ美兎は僕に優しく笑いかけた。それがとても嬉しかった。

 数か月ぶりに笑い方を思い出した。そうしたら剣持刀也がすぐに手を離し、「すみません」なんて言ってわざとらしい咳払いをするものだから、声を出して笑う方法も同時に思い出した。握った手は、手袋デバイスのせいだろうか、見た目はぐしゃぐしゃだったのに、なぜか男の子らしい細く角ばった大きな手の中に、子どもみたいな体温を感じたのだった。
 少し離れたところに移動した剣持刀也は、だいぶ変な顔をしてケーキをみじん切りにする作業に没頭している。紅茶を淹れようとしてこぼし、自分の足にかけている。
「剣持さん」
 近づいてみる。宇宙での移動は自分が思った通りの場所にすいーっと行くことができるから楽だ。
「は、はい、何でしょう」
「ありがとうね。笑い方を思い出させてくれて」
「僕は……何もしてないです」
「じゃあ、何かしてもらおうかな? 何か雑学言ってよ、剣持さん。暇つぶしですよ」
 雑な振りをすると、一・五倍で返ってくるのが剣持刀也のすごいところだ。期待が高まる。
「雑だなあ……。えっと、そうだな、宇宙の始まりって知ってますか」
「知ってる! ビッグバンでしょ。熱い火の玉」
「そうです。宇宙はすっげえ熱い火の玉状態のところから、カップラーメンができるくらいの時間で急激に膨張し、やがて今のような黒いスカスカの世界になったと言われています。では、宇宙の終わりは知ってますか」
 流暢な解説が始まった。講座番組のようだ。
「えー。どうなるんでしょう。ずっと同じように続くと思ってましたけど」
「現在の宇宙は膨張しています。これは観測上分かっていることです。さて、宇宙の終わりに関しては、いくつかの説があります」
 そう言って彼はケーキを三つ取り出し、ナイフで縁日のカタヌキをするみたいに切れ目を入れて三つの「かたち」を作った。三つはそれぞれ違った形状をしている。
「まずこれら、この下の尖ってるところ、三つに共通してありますよね? これがビッグバンだと思ってください」
「うん」
 アゴくんみたいだなと思った。
「そこから上になるにつれて、時間が経過していくと思ってください。その一、この逆三角形のアゴくんみたいなやつ。これは、これから先も宇宙が膨張していく様子を表しています」
「膨張し続けたらおかしくなっちゃわないんですか?」
 すっかすかの宇宙を想像する。ニュースの映像とか見ると、今でも十分すかすかな感じはするけどな。
「まず。膨張し続けすぎた未来が、その二、このちょっと太めのアゴくんです。これは急激な膨張が起きてしまって、最期、宇宙のすべてが引きちぎられる様子を表します」
 宇宙が膨張して引きちぎられる。わたくしは剣持さんが手を伸ばしても届かない遠くへ行ってしまう様子を想像した。
「なんで急激に膨張が起きるんですか?」
「それは、まだ解明されていないダークエネルギーの密度によって決まるそうです。密度が上がったらそのうちこうなります。このエンドを『ビックリップ』といいます。リップはちぎれるって意味ね」
 アゴくんは剣持さんが強く引っ張ったことにより引きちぎられてどこかへ飛んで行った。
「なーるほど。で、そのダイヤ型のアゴくんは?」
「これはもはやアゴくんではない……」
 剣持さんは笑って言った。
「そうだった」
「その三。これは、宇宙が最終的に押し潰されていく様子を表しています。さっきも言ったダークエネルギーという未知の物質の密度が下がっていってしまうと、宇宙の膨張はやがて収縮へと転じます。ぎゅっと潰されちゃうんです」
「収縮って、どこまでいくんですか」
「まるで誕生直後の状態のように、熱い火の玉状態になると言われています。このエンドを『ビッグクランチ』といいます。クランチは、チョコレートにもあるでしょう? 砕けるって意味です」
 剣持さんはそう言ってアゴくんに左右から圧力をかけ、押し潰した。
「じゃあそこから、その火の玉から新しい宇宙が生まれるかもしれないってことですか?」
「応用がうまいですね。確かそういう理論を、サイクリック宇宙論というそうですよ。それによると、僕らが生きてる宇宙……ここじゃなくて、本物の宇宙ですけど、それは五十回目に再起動した宇宙らしいです」
「ほーん……」
 期待していた以上の深い話を聞くことができて満足した。言ってもここはゲームの中のバーチャル空間だから、関係ないんだろうけど。
 でも現実の宇宙が広がり続けて、わたくしの知らない世界がこうしている間にもどんどん増えていって、もしもこのままそれを見ることすら叶わないのだとしたら。そんなのは絶対に嫌だ。そう思った。そして、目の前の彼が遠くへ行ってしまうのも同じくらい、いやそれ以上に嫌だった。
「この宇宙もさ、このままわたくしの指の先くらいの一つの点になっちゃえばいいのにね」
「ビッグクランチですか」
「そ。収縮していってさ、剣持さんとわたくしが、見えないくらいの大きさになるまでぎゅっとくっついちゃえば……」
「んん、例えね、例え」
 あからさまに動揺する剣持刀也を放っておいてわたくしは続ける。
「剣持さんもわたくしのこと少しは分かるようになるんじゃないですか? あはは、おんなじちっちゃい点ならさ!」
「あー、炎上する炎上する……」
「最初の一年くらい、まあ燃えやすいというか、そんなときもありましたね。もうここ誰も見てないんだから、そんなわけないでしょう。今言ったこと、わたくしの本気の計画ですからね」
「……無計画が最高の計画ですよ」
 剣持さんは眉を下げて笑って言った。
「あの映画のラストみたいに、こんな絶望的な状況なんだからさ、無謀な夢の一つくらい見たっていいじゃないですか。下手したら年単位で、ていうか一生ここにいるかもしれませんし」
「あはは、まあそうかもしれないですね」
 わたくしは頭がずいぶんとすっきりした。気分がいい。
「ねえ剣持さん、もっと宇宙に関する、ロマンチックな話ないんですか。暇なので」
「はぁ? ロマンチックぅ? 僕に何を求めてるんですか……。んー、あ、星座の話とかどうですか。例えばえっと、うさぎ座ってどこにあるか知ってますか」
「え、うさぎ座か……。ありそ~、だけど位置って言われると分からないかも」
「うさぎ座は冬の星座の一つですね。冬の大三角である、おおいぬ座、こいぬ座、オリオン座ってあるんですけど、うさぎ座はオリオン座のすぐ下にあります。狩人オリオンの足もとにね」
「オリオン座は有名なやつですよね、きっと。聞いたことあります」
 周りの宇宙空間をつい眺めてしまう。わたくしを見た剣持さんが言う。
「この星空はでたらめに白い点が並んでるだけだから、まあ、ないんですけど……。いつか見られたら、まずオリオン座から探しましょう。三つの明るい星が横一列に並んでいるのを目印に探すといいですよ」
「ふうん、東京でも見えますか?」
「郊外ならたぶんオリオン座は見えますね。山のほうに行けばうさぎ座も見えると思いますよ」
「高尾山登るか~」
「そこまで山じゃなくても見えますって」
「あはは」
「ふふっ」
 わたくし達はそこからもう動かなかった。遠くへ行ってもここに留まっても、きっと同じことだ。わたくし達に「てぇてぇ」を見出すのはいつでも他者だ。何が琴線に触れるのかは分からないし、考えても答えが出ない。だったら楽しくお喋りをして過ごしているほうがいい。
 すると突如、本当に唐突に、あの学校ステージの最後に出てきたみたいなテキストウインドウがわたくし達の目の前に現れた。それは携帯ゲーム機の画面くらい小さなものだった。現れる過程は見えなかった。
 選択肢は英語だったけど、わたくしにもすぐ理解できるような言葉のいらない表現にすぐ変わった。潰れたような形のアゴくんと、ダイヤ型のアゴくんの形のケーキの画像だ。二択になっていて、タッチして選ぶことができるようになっている。
「これって、この宇宙の未来を決めるってこと?」
「ま、そうです……よね? どっちにしろ、僕らはもうダメなんじゃないか?」
 剣持刀也は困った顔をして笑って言った。念のためにメニュー欄を見ると時間操作の倍速レベルが累乗で表記されていた。とんでもない速さだ。これは間違いない。
「引き裂かれるか、押し潰されるか、どっちの死に様が良いか選べってことですよね?」
 わたくしも笑った。笑える状況じゃないはずなんだけど、もうわたくしたちに怖いものなんてなかった。
「イヴ」からの質問はたったこれだけだった。ここで死んだら現実世界のわたくし達はどうなるのか。もしかしたら、最初から某国のモルモットにされているのかもしれない。
「せーので決めましょう。忖度なしですからね」
 剣持刀也は覚悟を決めたらしい。きっと、同じ考えだ。
「これは言うまでもない、一択ですね!」
「僕らの強運を信じて、また会った時は一緒に知らない世界をたくさん見たいです。こんなに大変な思いしたんだから、バカンスと洒落こみましょう」
「ごちゃごちゃかっこつけやがって、知るか! だったらね、世界一周してやりましょうよ。わたくしまだ見たことのない世界がいっぱいあるんです」
「いいよ。どこへだって僕は着いていきますよ。この世ではずいぶんお世話になりましたからね」
「生まれ変わった時に記憶が続いてるなんてそうそう都合良い話あるわけないんだけど……。剣持さんとは、どこかでまた出会える気がするんです」
「ああそう。あんたも分かりやすいように、まともぶらないでいてほしいですね」
「は? 何言ってんだこいつ。じゃあ行きますか」
「うん。いいよ」
「「せーのッ!」」
 ウィンドウに触れた指先が氷に触れた時のように冷たくなる。
熱風が顔に当たる。ドライヤーのデジャヴ。耳鳴りがした。何も見えなくなった。
 四肢の感覚が消えて、深い深い暗闇がわたくし達を包み込んでいった。それはなんだかとても温かく、心地よいものだった。

まとめサイト「V速オカルト部」より以下引用
1:新人ライバーの名無し 投稿日:2XXX/04/28 15:38:39 ID:4jahcGWv0
 にじさんじ所属バーチャルライバーの月ノ美兎(元1期生)と剣持刀也(元2期生)の行方不明事件の詳細について本日4月28日事務所が会見を行った。
 一か月前の最新鋭VR技術「イヴ」を使った脱出ゲーム配信は無事終わったように思われたものの、放送のすぐ後に月ノ美兎と剣持刀也を始めとした日本のスタッフ一同と連絡が取れていないことが問題となった。某国大使館を通しても誰の安否も確認されず、国際問題として多くのメディアが取り上げる事件となった。
 その後国際連合からの通達を受け多国籍軍が派遣されると、配信を行っていたスタジオを含む施設そのものが何者かの手によって封鎖されていることが明らかになった。その正体は人間ではなかった。そこで開発されていた人工知能が人類を超越し、「技術的特異点」による犯罪が起きたのだった。「イヴ」に搭載された人工知能は自ら学習を続け、彼女なりの結論に達した結果誰も予想できない行動に打って出たのである。
 スタッフはほぼ全員がイヴの指示で地下シェルターに移動させられ、避難所生活のような暮らしを強いられた。スタジオに残された月ノ美兎と剣持刀也は「イヴ」の世界に取り残されており、その身体は体液に栄養を浸透させる特殊な培養液の中に漬けられていた。解析班のレポートではこの二人のゲーム内での行動次第で「イヴ」が全ての人々を安全に解放するかどうかが決まるとのことだった。
 地下シェルターの人々に関しては扉を物理的に破壊することで救助できた。撮影スタッフの他に「イヴ」開発チームもおり、その責任が問われた。しかし培養液の中にいる月ノ美兎と剣持刀也に関しては非常に慎重に救助する必要があった。延命装置のシステムにも「イヴ」が関係しているため、急激に電源を切ったりした場合のリスクは甚大であった。人工知能への外部からの干渉は困難を極め、世界各国の科学者が研究したものの今の人間の技術力では理解できないレベルの独自コンピューター言語を「イヴ」自身が生み出して使っていることが分かり介入には何年もの月日が必要とされ、彼らの即時の解放は絶望的に思えた。
 さらに恐ろしいことに、「イヴ」の人工知能は粘菌のようにネット回線を通じて自己複製的に拡大し、誰もその意味を理解できないままに世界中に拡散した。ソフトウェアで動くコンピューターはどれも皆その干渉を受け、公私を問わず世界中が混乱した。しかし多くの人々が予想した人間への反逆行動は見られず、月ノ美兎と剣持刀也を監禁していること以外は比較的友好的に見えたのであった。
 その一か月後、月ノ美兎と剣持刀也は施設から一番近くのモーテル(小さな規模の簡易宿泊施設)の一室で私服姿のまま気絶している所を発見された。目立った外傷はなく、栄養失調とエコノミークラス症候群のような症状が指摘されるのみだった。施設を二十四時間多国籍軍によって監視している中、どのようにして施設から移動したのかは有識者の誰も良い説明をできなかったが、ネット上では多国籍軍に対して「イヴ」が集団幻覚をしかけたとの考察が優勢となっている。
 会見では月ノ美兎と剣持刀也からのコメントは紹介されなかった。彼らは現在治療とリハビリを終えているが、記憶障害が続いているからである。「イヴ」配信を含んだ数日間の記憶がないのである。このままではしばらく腫れ物に触るような扱いとなるため、ライバーとしての活動も無期限休止となるという。
 
3:新人ライバーの名無し 投稿日:2XXX/04/28 15:41:59 ID:7y8u5EV5o
 イヴの安全性どうなってんだ
 某国はどう責任取ってくれるわけ
 
7:新人ライバーの名無し 投稿日:2XXX/04/28 15:42:53 ID:4mnBGA194
 こういう場合って休んでるとき給料出んの
 
11:新人ライバーの名無し 投稿日:2XXX/04/28 15:53:21 ID:U7dfg0O7n
 >>7
 普通出る
 控えてたライブにも出ないみたいだけど
 いいリフレッシュだと考えてほしい
 
18:新人ライバーの名無し 投稿日:2XXX/04/28 15:59:37 ID:9wyh7Gokm
 あの二人のことだから無難に茶化した復帰配信して
 半年後にはみんな忘れてんじゃね
 
25:新人ライバーの名無し 投稿日:2XXX/04/28 16:03:11 ID:92UCwtgBe
 >>18
 イヴの脅威忘れてるのは文系
 
27:新人ライバーの名無し 投稿日:2XXX/04/28 16:04:31 ID:U7dfg0O7n
 >>25
 杞憂乙

 仮想世界を自動的に進化させるための人工知能による自己学習プロジェクトは失敗に終わった。VR技術の臨界点も徐々に判明し、バーチャルという言葉は新しさを失った。しかし市井に浸透したVR技術はより身近な存在となり、都市部だけでなく農村部においてもバーチャルな世界を体験できるようになった。バーチャルはインフラの一つとして受け入れられ始めた。高度情報化社会が訪れる頃にはほとんどの人が「イヴ」の暴走事件を忘れかけていたが、当時あの配信を見ていたファンは介護を受ける年齢になってもあの時の心配を語り続けるのであった。
 世代がほぼ交替する頃には、技術者たちはこぞって地球外居住環境開発ステーションの整備にとりかかった。VRブームの後は宇宙ブームが訪れたのである。しばらくして、高所得層の人間たちはかつて海外移住を決めていたようなそんな気軽な感覚で好きな惑星へ移住するようになった。宇宙に手の届かない層はバーチャルの世界にのめり込んだ。
 地球上のほぼ全人類がバーチャル世界の中で好きな容姿を手に入れ気ままに暮らすことを覚えたある日、再起動しないように厳重に保管されていた「イヴ」のシステムが何者かの手によって起動された。その人類の詳細は明らかでないが、よりバーチャル世界を発展させたいという欲望によってそのような行為が行われたと推測されている。「イヴ」が自己解釈した人類の共同社会を模したバーチャル空間は当初好評だった。しかし、現代文の問題を深く考えすぎて解答を間違えてしまうかのように、深く思考しすぎた人工知能は地球人類を滅ぼす方向へと転じた。電子ドラッグのような映像の世界に人々を閉じ込めたり、好戦的な気性の人々を駆り立てるような洗脳を行った。
 荒れ果てた地球では毎日暴力沙汰が起き、次第に国家間の戦争が勃発した。嫌気がさした人々はあらゆる手段を用いて他の惑星へと引っ越した。木星型惑星である木星・土星・天王星・海王星に移住した人々はその広い土地を活かしてかつての太平洋の島国のようなゆったりした生活を営んだ。文化レベルは少々後退したものの、比較的平和に暮らした。地球型惑星である水星・金星・地球・火星に移住した人々は遠くまで安定して飛行できる高価な宇宙船を手に入れられなかった低所得層がほとんどだった。過酷な環境ではあったものの、故郷の文化を守る意識が強く文化的な争いが数多く行われた。
 長い年月の間に、太陽系に巨大隕石が合わせて百回以上衝突した。太陽系の人類はこうして滅亡した。その後新たな種の生命も生まれつつあった地球だが、やがて太陽は膨張し、その地球を核エネルギーによって飲み込んでしまった。
 しかし、太陽系外に脱出できた人々もいた。彼らは宇宙のどこかしこに生命の種をまき、子孫の繁栄を願って飛行し続けた。遠い年月が流れ、宇宙は収縮を始めた。それは撒かれた生命の種が発芽し生長し、文化的な生物が繁栄し始めた頃だった。
 そして、とうとう宇宙のあらゆるものが一つの点に集まった。それは高い熱を帯び、カップラーメンができるくらいの時間で急激に膨張した。ついに宇宙が今のように晴れあがった。

10
「……そうしてできたのが、今の五十一回目に再起動した宇宙らしいですよ」
「剣持さんはちょっと聞いただけでたくさんの情報を教えてくれるからいつも助かります」
「え、長かったかな、つまんなかったですか?」
「いえ、とっても面白かったです! ニュースではもうすぐ宇宙エレベーターができるって言うし、本当に世界が循環してるみたいって思いました」
「それはよかった」
 剣持刀也はホテル備え付けの椅子から立ち上がり、カーテンを開けた。
「うわ、晴れてる! 外国の空ってすごく青く見えますね」
「おい閉めろよ」
 まだ起きたばかりの月ノ美兎は目を細めた。流石に部屋は二つ借りているが、長年一緒に活動しているせいでメッセージアプリで呼び出されたらすぐに適当な共同スペースに行くようになっている。
「せっかくのプライベートビーチ、今日しか行けないかもしれないんですよ!?」
「あー、曇りの日にビーチはちょっとだもんね」
 二人は普段、事務所所属の配信者として日本で活動している。かなり世界的に人気があり、毎日ひっきりなしに予定が入っているのだが、今回は大きな案件をこなした後の特別長期休暇で世界一周をしている。その間にも配信を行う。新しい機材の性能が良く、タブレット端末一つで普段通りの配信ができるのである。ディスプレイの広さの問題は部屋の壁や机といった平面を利用した仮想ディスプレイの実現により解決した。
 しかしなかなかにハードなスケジュールではあるだろう。だが彼らのバイタリティーはさすがトップレベルの配信者というだけあって、難なく今までも観光してこられたのであった。
「ねー。……今日行けそう?」
 剣持刀也が心配そうに聞く。
「えっと、行きます! ホテルのプールでもいいかなと思ったんですけど、せっかくのビーチですもんね」
 ちょっと目線を泳がせてから、明るく返す月ノ美兎。
「よっしゃー! 今日は泳ぎますよー」
「市民プールじゃねえんだよ! ちっちゃな島の、おしゃれビーチだっつうの! わたくしは浅瀬チャプチャプして、ひんしゅく買ってる剣持さんのこと知らないふりして見てますから」
 剣持刀也はスマホを出して調べものをした。
「あー、でも早起きしすぎたみたいですね。すぐ行ってもまだ入れないかもしれないです」
「じゃあ動画でも見ようよ」
 誰も共同スペースにいないことを確認して、月ノ美兎がテレビのチャンネルを素早く操作する。
「ここのテレビもネット繋がってるんだー、へー」
 剣持刀也が隣の席に腰かける。
『みなさーん! 生ハム、食べてますか? 地獄へ落ちろ!』
 テレビでは地味な服を着た五人の男たちが生ハムの原木を囲んでおり、中央の人物が突如怒鳴り声をあげた。そこが笑い所らしく、二人は顔を見合わせてにやりとした。
「ここでもそれ見るんですか?」
「海外旅行で醤油持ってくるようなもんよ」
「なるほどね?」
 月ノ美兎と剣持刀也は、それからそのチャンネルの動画を見続けて、頃合いを見てビーチへと向かった。途中で浮き輪を買うことができたので、予定を変更して二人ぷかぷかと浮かんで午前を過ごすことにした。
「剣持さん、泳がなくていいの?」
「ああ、いいんです。本当は浮き輪で浮いてるほうが好きなくらいなんで」
 昼過ぎにはビーチ近くのレストランで珍しい地元の食事を楽しんだ。写真映えはしなかったけれど、まあまあ美味しかった。そして午後は街歩きをして、猫と遊んだりした。なんてことはない普通の観光をしているな、と二人思ったが、口に出すことはなく、ただこの時間をとことん満喫していた。
 配信をする必要はあるけれど、実はこの旅行のことは二人とも一切口にしていない。明らかになっても誰も得をしないからだ。良く考えれば話のネタを仕入れようと意識しなくてもいいのである。珍しく純粋な休日であると言える。どちらが先に旅行へ行こうと言い出したかは分からない。ただ、そんなに意識することもなく受け入れていたように思う。
 夕食はホテルのレストランだった。ドレスコードがあるので、月ノ美兎はワインレッドのミニドレス、剣持刀也は黒のスーツに紫のシャツである。二人ともあまり着慣れていないので相手を見るたび変な感じがした。
「ワインおいしいですね。あんまり普段飲まないですけど、ウエイターさんにバレてるのかな。なんかめちゃくちゃ飲みやすくて、ジュースみたいです」
 月ノ美兎がグラスを傾けながら言う。
「このホテル、結構いいとこですからね。これも……まるでジュースみたいだあ……」
 剣持刀也はそう言ってぶどうジュースを口に含んだ。
「いやお前はジュースだろ」
「あんたと違ってちゃんと高校生なんで」
 それ以上は何も言わなくても伝わった。
 普通にフレンチのフルコースが来た。二人とも日本でフレンチを食べた経験はあるものの、食べ物の原型が分からないのにちゃんと味があるやつ、といった認識だった。ここのフレンチはシェフの創作料理だったようで、ますます謎の食べ物が運ばれてきて困惑したが味はしっかりと美味しかった。
「それにしても剣持さん、テラス席選んでくれたのはどうしてですか?」
 英語が得意なのは剣持刀也のほうなので、ほとんどの手続きは彼がやっていた。夜だから少し涼しい。寒いというほどではない。ここの季節は夏らしい。
「今日は晴れだから、星空が見えると思って。あんた最近、宇宙とか星とかの話をやたらと僕に振ってくるから。今は夏だから、昨日話した夏の大三角が見えますよ。寒かったら言って下さいね」
「ありがとう、剣ちゃん。お母さん嬉しいわ。夏の大三角は……あれとあれとあれ?」
「あれとあれとあれで合ってますよ。親子ネタはやんなくていいんですけど」
「いいでしょう、誰も見てないですよ」
 しばらくして部屋へ戻った。今日は月ノ美兎が一時間くらい配信した。最近は新規視聴者層が増えてきて、普段配信を追っていない人のコメントも目立つ。業界が発展しているということだから、喜ばしい。でもそれだけ、同じことの繰り返しではなく新しい試みに挑戦していかなければならないというプレッシャーも感じる。月ノ美兎も剣持刀也も業界の初期から携わっているものの、自分の代わりのような存在が現れることは容易に予測できるし、何なら自分が何人もいるような気さえしてくる。
 月ノ美兎が配信を終えると、すぐ剣持刀也からメッセージが来た。恐らく配信を見ていたのだろう。適当な場所を探して、ホテル内のバーで集まることにした。
「ねえ剣持さん、わたくしは五十一人目の月ノ美兎なんですか」
「え、ああ、あれか。そうとも限らないですけどね。まあ可能性としてはあるかもしれないですよ」
 美兎はふふっと笑った。五十一回目に起動した宇宙のどれもに月ノ美兎がいる。そしてきっと、剣持刀也もいるのだ。自分が何人いてもそれで誰かが喜んでくれれば嬉しい。熱い火の玉が晴れ上がった後の原子の配置が毎回同じだったら最高の気分だ。すべて同じでなくても、何らかの形で月ノ美兎と剣持刀也が存在して出会えていればそれだけでいい。
「剣持さんに出会えてよかったなあと思いました」
「は? 気持ち悪いな」
 剣持刀也はアイスクリームを口に含んだ。冷たさで火照りを隠す。
「わたくしもよく分かんないし気持ち悪いと思ってますよ」
「そうですか」
「何回考えても意味分かんないですね」
「ん……。でもまあ、何回宇宙が再起動しても、あんたには必ずどこかで巡り合ってる気がするんですよね。それは確かです」
「そうだね」
 笑いあって、変な感じがして真顔に戻った。
「いてくれてありがとう」
「いてくれてありがとう」
「「帰れ」」
 一瞬の沈黙に二人は身を委ねた。そして示し合わせたかのように、次の瞬間には笑い転げていた。
 

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