1 月ノ美兎は汗をぬぐった。ここで慌ててどうするんだ。一から十までを数える。ダメだ。こんなのありえない。動揺しているんだ。一から三十まで数える。右手人差し指で左手の小指の付け根を軽く叩く。それでも、現状は変わらないように思えた。
月ノ美兎が気づいた違和感。それは、先ほどまで番組進行のための指示を出していたスタッフの声が、いつのまにかすっかり止んでいたことだった。それは明らかに異常事態で、外界との連絡手段が途切れたことを示していた。
目の前の彼は気付いているのだろうか。生放送だから、一旦こちらからの確認のために撮影をストップさせるというのは不可能に近く、思考を巡らせた。これくらい、なんてことないのだろうか。でもこんなこと経験したことがなかったし、ドッキリにしては悪質すぎる。聡い彼の表情は普段と変わらないように思え、月ノ美兎は気を落とした。
この時、剣持刀也は何も気づいていなかった。ただ、その数秒後の月ノ美兎の行動により、十を知ることとなる。
2 今からそう遠くない至近未来において、にじさんじは様々な分野とのコラボレーションを進めていた。その中でも、良くも悪くも最も人々の記憶に残ったのが「イヴ」とのコラボである。
「イヴ」。世界最先端のテクノロジーを使った、VR、バーチャルリアリティシステムのことである。専用の軽い機材を体に装着するだけで、バーチャル空間の中で自分の身体を好きな見た目に変えることができる。そして、その見た目のまま様々なバーチャル空間をまるでそこにいるかのように体験することができる。
これだけなら今までもよくある技術だったが、「イヴ」の持つ何よりの強みはその没入感にある。事前に行われる全身のスキャンと、モーションを感知するための電極、薄い皮膜のような手袋デバイスによって、例えばバーチャル空間内の物を掴んだ時、まるで本当に掴んでいるかのような触覚と重力を感じるのである。
「イヴ」のバーチャル空間にはもちろんゲームも存在する。そこでは触覚と重力の表現によりますますリアルな動作を楽しむことができる。勿論実際にスライディングをしたり飛び跳ねたりするのは疲れるので、戦闘ゲームなどのアクロバティックな動きを必要とするものとは相性が悪い。「イヴ」と相性がいいのは、脱出ゲームや、ホラーゲームのような雰囲気を楽しむ類のものだろう。
月ノ美兎は定期的なマネージャーとのオンライン面談の際、新たな案件の相談があると聞いて事務所に来ていた。会議室には重役が並び、仰々しい。見慣れない人もいて、自己紹介を聞くに海外から派遣されてきた人のようだった。ライバーは自分だけだ。スクリーンに映し出されたプレゼンテーションには、見慣れない「イヴ」のロゴが浮かぶ。
「日本国内ではまだ設備が整っていないため、月ノ美兎さんにはぜひこちらに来ていただきたく……」
流暢な日本語はまるで違和感がなく、微笑みは穏やかだった。世界で「イヴ」の設備があるのは某国国営の専用施設のみだそうだ。一般には流通しておらず、現在は世界各国から選出された著名な配信者が宣伝のために招待されているというわけらしい。「イヴ」はまだ開発途中で、あともう少しで完成するらしいが、ほんの些細な欠陥がありまだリリースできないのだという。要はデバッグを兼ねたPR配信ということだろうと月ノ美兎は判断した。
不眠ぎみであまり最初の方の説明を真剣に聞いていなかったが、どうやらプレゼンをしている人は公務員らしく、「イヴ」計画は某国の国家プロジェクトのようだ。プレゼンが終わり、重役数名と月ノ美兎だけが会議室に残された。
「ライバー事業の発展のため、受けてくれませんか。にじさんじ初の国家レベル案件なんです」
某国がこの事業のために投資した金額は計り知れない。ギャラもかなりはずむらしい。しかし、月ノ美兎はこう返した。
「断らせてもらいます。プレゼンでは単身で挑むとのことでしたが、それはあまりにもリスクが大きすぎるのではないか……と」
「リスクですか」
「そもそも技術の仕組みが理解できません。存在しないものの重さが分かるようになるなんて、不思議すぎます。怪しいというか、とにかく不安要素があります」
重役は、何も映っていないスクリーンに目をやった。
「ああ、そうだろうと思いました。ただ、事前に詳しい内部の説明資料は送られてくるらしいですし、それに……この案件にはもう一つプランがあります」
端末を操作して、重役は一枚のスクリーンショットを映した。それはとあるトーク画面だった。あるマネージャーから、剣持刀也にこの案件のことが説明されている。彼は快諾していた。
「最初は承諾してくれたライバーを一人ずつ派遣する予定でしたが、この際、二人で配信するというのはどうでしょう。絵的にも映えると思いますし、心理的な負担も軽減されると考えます」
「それは……」
確かに、仲のいい剣持刀也とのコラボであれば、不安感も薄れる。しかし、妙に引っかかる点があるのはなぜだろう。
「月ノ美兎さん、この案件は日本初、いや、日程次第では世界初の『イヴ』配信になります。この先行プレイ機会を逃すと、あと数年は待つことになるかもしれません」
唾を飲み込んだ。おそらく、引っかかる気持ちは好奇心の裏返しだ。未知の感覚を体験することのできる、数少ない機会。何より、信頼のおける同僚が承諾しているのが月ノ美兎をその気にさせた。
企画名は「【世界初】イヴで遊ぶ!【月ノ美兎・剣持刀也/にじさんじ】」となり、収録動画ではなく生放送の形だった。体験できる施設はかなりの広さがあり、スタジオのように使えるらしい。機材も揃っていて、いつものプラットフォームで配信ができる。
日程は驚くほどの速さで決まった。会議から二ヶ月後、渡航の日が来た。月ノ美兎と剣持刀也は予定が噛み合わず、別々の時間帯に日本を出発することになった。某国から小型飛行機が貸切で用意されていて、慣れない特別待遇を受けた。飛行機には会議でプレゼンをしていた人も乗り込んでいて、あれこれと世話を焼いてくれた。このことを配信で言ってもいいかと聞くと、あの時のように穏やかな笑顔で「いいえ」と言われた。
某国に到着した後は、小さなレストランで剣持刀也と待ち合わせをした。
「ああ、お久しぶりです」
剣持刀也は小さなチョコレートケーキを食べていた。フォークの背で粉々になった欠片を潰して口に運んでいる。
「どうも。何時間か前に来てたって聞いてたんですけど」
月ノ美兎はビールを注文し、グラスを傾けていた。
「はい。ちょっと用があったので。そんなに大した用事ではないですよ。まあ、あれですね。部活です」
「ああ、部活……まだやってたんだっけ、そういえば」
「剣持刀也は高校生だからね」
「なるほどね」
軽い食事をとって、列車に乗り込み、車で少々移動して、その間に簡単な打ち合わせをした。辺境な田舎町に科学研究施設のような建物がある。厳重なゲートで手荷物検査、金属探知機、同意書へのサインを済ませ、慣れない外国語にうんざりしてきたところでやっとメイン施設の外観が見えてきた。
ハリウッド映画で大規模なアクションシーンを撮影するのに使うような、天井の高い箱型の建物だ。先を歩く案内人の足取りは軽く、月ノ美兎は少しわくわくしていた。控室は二人とも別に用意されており、鏡の周りにライトが付属している豪華なドレッサーのある部屋をあてがわれた。スマホやゲームは手荷物検査で没収されたから持っていない。とても暇で、いつもならお喋りをして時間を潰すのにと思っていた。退屈な時間が体感で一時間ほど流れた。部屋に時計はなかった。
ノックをして入ってきた施設のスタッフは、月ノ美兎を別の階へ連れていった。更衣室で下着姿になるまで脱ぎ、コットン地のTシャツとハーフパンツを着る。アンドロイドの横顔に「イヴ」の文字があしらわれたロゴ付きの黒い服だ。持って帰ってもいいかと通訳スタッフに尋ねたら、他のスタッフの指示を仰ぐでもなくやんわりと断られた。
そして次の部屋に通され、脳波を測る機械によく似た形状の装置に横たわった。視界を機械で遮られたものの、周りから人がいなくなったのは分かる。轟音と共にスキャンが行われ、何の痛みも感じないまま測定は終わった。
ただ、その次の工程は少し気持ち悪かった。小さな吸盤のような電極を全身に付けられて、ひんやりとする感触が気色悪かったのだ。心臓の検査をする時によく似ていた。モニタの前で軽く動くと、美しい女性アンドロイドのアバターが同じ動きをした。これで月ノ美兎の身体はバーチャル空間で「月ノ美兎」として動けるようになったらしい。通訳スタッフが廊下を歩きながら話していたことでは、3Dモデルは「イヴ」のシステムに順応するためにアップデートが加えられている。大変な労力のかかっているイベントなのだと月ノ美兎は気を引き締めた。
配信を行う部屋には、同じ「吸盤だらけ・黒のTシャツ・ハーフパンツ」の姿をした剣持刀也がいて手をこちらに振っていた。細い体躯が目立つ。二人でTシャツとハーフパンツを着用しているだけの格好だから、まるで体育の授業みたいだ。撮影スタジオは小さめの体育館くらいの広さがあった。
事前の説明スライドで見た通り、普通のVR施設でよくあるような手持ちのコントローラーはなく、代わりに薄い皮膜のような材質の手袋をはめた。手首から先を吸着して、空気が入らないようにする。視界用デバイスを装着し、言われたとおりの手話のようなジェスチャーをすることで視界の画面が起動して「イヴ」のロゴが表示された。
そして一瞬まばたきをしたら、そこはもう洋館の中で、隣にいるのはいつもより少し実在感のある「剣持刀也」だった。制服姿で、図面ケースみたいな竹刀入れを担いでいる。自分の両手のひらに目を落とすと、どことなくリアルな感じがしたが、上手く言葉には表すことができなかった。
配信まであと十分。スタッフの指示が無線イヤホンから聞こえるため、それまでは自由に動ける。バーチャル空間は細かいところまで作りこまれていて、モデラ―の努力が随所に感じられた。
「うわー、すごいな! めちゃくちゃリアルじゃないですか?」
剣持刀也が驚嘆した。
「そうですね。触ってみてもいいんですよね。ソファすごくないですか、ちゃんと革張りの質感ですよ」
撫でてみると、縫い目の部分はきちんと凹凸があり面白かった。
「えー、すごい! 壁紙もちゃんと植物の模様だし、なんていうのかな、ジャギジャギした感じが全くないな! すごくないか」
暖炉近くのテーブルにはガラスの花瓶が小さなブーケを活けた状態で置かれていて、花はひとつひとつが生気を帯びている。触れると、花弁が儚く散った。他のアイテムに触れる時も気をつけようと思わされた。
剣持刀也はいつの間にか、リビングを出たところの廊下で反復横跳びをしていた。準備運動でもしているのだろうか。話しかける気にもならず、しばらく見ていたら彼は唐突に動きをやめた。
「委員長、コメントの出し方分かります?」
いつものモデルよりもより自然な笑顔でにっこりと笑って剣持刀也は言った。表情が現実の姿と同期しているのはここでも同じだった。相変わらず、激しい動きの後なのに息切れ一つしていない。流石の剣道部だ。
「……コメントって配信のですよね。メニューを開くジェスチャーをして、タブがあるのでそこから行けると思います」
「ありがとう。まだこのジェスチャーに全然慣れないな」
「メタっぽい動作にしか複雑なジェスチャーは使わないみたいなので、大丈夫だと思いますけど」
「じゃあ、よく遊んでるリアル脱出ゲームみたいなノリでやればいいのかな。てかこれ、普通に動いてますけど、事前情報ではマップ広いみたいだし、この部屋だけで間に合うのか? んー?」
「技術的なことはまったく分かんないですね。まあ、どうにかなるんだと思いますよ」
「月ノ美兎さん、剣持刀也さん、そろそろ配信開始します」
スタッフの声が無線イヤホンから聞こえて、慌てて元の位置に戻った。
視界デバイスがきつく頭を締め付ける。取り外そうと脳に電波を当てるベルトの部分を触ってみても、上手く外れない。どんなに強く引っ張っても、取れない。こんなに自分は非力だっただろうかと困惑した。
「五、四、三、二……」
一は放送に声が乗るから言わない。放送業界のお約束だ。本番に向けて気持ちを切り替える。カメラはどこだろう。視界の端に固定したコメントが爆速で流れていく。「こんばんワニノコ」「イェア!」「こんばんイェア!」等。低速モードが有効になった。配信ソフトはスタッフが操作してくれる。カメラも自動追尾だ。
「起立、気を付け! こんばんは、バーチャル界の学級委員長、月ノ美兎と」
「はぁいどーもー、にじさんじの男子高校生、剣持刀也です」
いつものBGM「雲は流れて」が聞こえる。
「今回はですね、わたくし達、特別な場所から配信してるんですよ」
「そうですね。いつものスタジオでの配信とは一味違います。いつも見てくれている皆さんはお気づきのことかと思いますが、僕らの見た目もちょっと……違う感じしませんか?」
コメントで「髪切った?」「シェーディングすごい」とか言われている。
「というのもね、なんと! 最新鋭VR技術『イヴ』の中にいます!」
「イェーイ! フゥー! イヴ! 案件! 案件です!」
剣持刀也はその場で反復横跳びをした。身体を弓なりにのけ反らせてガタガタと動き回っている。このためにリハーサルしてたのか。コメントがドン引きする声と草で埋まっていく。
「剣持さん、落ち着いて! 案件だからって過剰に連呼したら逆効果だから!」
「あはは、はい。こちらですね、PR配信となっております。じゃあ、画面切り替わるかな?」
無線イヤホンから、画面を切り替えたと指示があった。「イヴ」の仕組みについての軽い解説を挟み、ゲームが始まる。
「簡単に言ってしまえば、よりリアルに感じられるVRゲームです。みなさんには見えないと思うんですけど、僕達いま手袋みたいなコントローラーをつけてて。ゴム手袋みたいにぴったり貼りついてて、ゲーム上のものに触れたりすると、まるでそれを触っているみたいな感覚になるって感じです。頭にはVRゴーグルみたいなのがついてて、僕らから見ると完全にバーチャル世界の中に入ってる感覚になります。あと、このゴーグルを固定するベルトからは電波が出るらしくて、ちょっと難しいんですけど、脳に直接干渉……することができるらしいです」
「そう! とってもね、新しい技術で……しかも、スタッフさんの努力のおかげで、世界初の実証実験に参加させてもらえることになったので、とっても楽しみです。実験といっても、脱出ゲームをね、やらせてもらう感じなんですけど」
「はい! あとね、ちょっとだけ付け加えさせてもらうと、このゲームには世界最先端の人工知能が関わってるらしくて。僕らの行動次第で、ゲームがリアルタイムで変化していくみたいですよ。ネタバレになるからということで、詳しいことは知らされていないんですが……何にせよ、非常にわくわくしております」
「リスナーのみなさん、コメント見えてるので、応援よろしくお願いします!」
月ノ美兎と剣持刀也は見えないカメラを直感で探しながら、適当に手を振った。コメント欄はいつも通りの賑わいを見せていたし、世界初の技術ということもあって初見のリスナーも多く、二人をやる気にさせた。
「それじゃ、いくぞっ!」
「いくぞーっ!」
3 その場で足踏みをすると、アバターが前に進む。右向け右をして足踏みをすると、直角九十度右に進む。操作は簡単だ。WASD操作のゲームと同じだと考えればいい。手を前に出せば細い指先が見え、ものを掴む時はEキー押下ではなく指を折り曲げる。
剣持刀也とは十分距離を取っていたが、たまにぶつかってしまう時があった。あまりにもメタなことだったので、オーバーリアクションは控えようと思ったが、それでも何もない空間で生きている物体に当たるのはなかなか怖いことだった。箱の中身は何だろなのやつだ。「イヴ」の課題点はおそらくここにあると予想できた。
「どうやらこのステージは、お茶会に必要なアイテムを正しく揃えることで鍵が開くみたいですね」
二十分近く探索した後、剣持刀也が総括した。暗号をいくつか解いた結果がこれだ。あと、ティーセットとお菓子があればいい。
キッチンルームへと向かい、アイテムを探す。天井まで届くくらいの高さの食器棚を漁る。剣持刀也は冷蔵庫の前で暗号と悪戦苦闘している。皿は、つるつるとしていて掴むと確かな重みを感じる。バーチャルではあるのに、これだけ実在感があるとなんとなく割ってはいけない気がして丁寧に扱ってしまう。余計に時間がかかっているかもしれないと少し焦らされた。
「ヒントでは、ケーキとゼリーを乗せられればいいので皿二枚、ポット、カップとソーサーは二つずつ……くらいかな、あれば、いいと思います」
剣持刀也が言った。
「そうですね。探してるんですけど、あんまりガチャガチャやると皿割っちゃいそうで怖いんですよね」
「あはは、案件感出してきてね?」
「いや、ほんとに! 怖くないんですか? リアルすぎて……」
「全然」
そう言うと、剣持刀也は暗号を解くのをやめてこちらに来た。
「な、なに」
彼は無言で皿を一気に五枚くらい重ねて取り出し、部屋の隅に次々投げた。陶器が割れる音がする。もちろんSEなので、同じ音がリピートされているだけの音MADみたいだ。
「こんなこともできる。ものは大事に扱いましょう。ふふ」
「ふざけてんのか! まじめにやれ!」
月ノ美兎がそう言うと、剣持刀也は不思議そうな顔をした。
「バーチャルなんだからさ、いくら壊そうと大丈夫なんですよ。まあ、バーチャルだからこそ鍵を解かないと絶対に中身が見えない冷蔵庫とかを作れるわけなんですけど」
「ハ~? それってつまり、わたくしが入れ込みすぎだって言いたいんですか?」
「あんまりゲームばっかりやってると、現実との区別がつかなくなるんですよ」
「コーラで骨溶けるとか言い出しそうなんで、謎解きに早く戻ってください」
「あはは、英語できないから僕に押し付けてんだろ!」
実際、そうだった。ゲームはまだ日本語非対応だったので、これまでの謎解きもほとんど剣持刀也にやらせていた。
「んー、でもなんかムカつくんだよなあ。剣持さんって、選択肢自分で選ぶタイプのゲームで、これはゲームですから、とか言って凄惨なエンド迎えるタイプじゃないですか?」
「あれは、その、僕なりに正義を貫いた結果なんで……」
言い淀んだ剣持刀也は素直に暗号解読に戻った。
そう時間が経たないうちに冷蔵庫が開いて、中から大きなホールケーキとバケツプリンのような大きさのゼリーが出てきた。ホールケーキは飾りのないショッキングピンク色で、海外らしい色合いだった。ゼリーはRGBのGだけを最大値にしたような緑色をしていて、クグロフ型のようなお馴染みの形をしていた。
それとほぼ同時にティーセットが揃い、二人は顔を見合わせて笑った。やかんでお湯を沸かし他の部屋で見つけた茶葉を入れて蒸らし、注ぐ。
「わたくしが注ぎたいです」
「え? ああ、どうぞ」
「紅茶派なので……」
ポットを持ち上げると、中の紅茶がたぷん、と動く感覚がした。リアルだ。注いだ後のポットに何気なく触れると、熱を帯びていた。温度の感覚までほんとうらしい。知らなかった。手袋デバイスが発熱しているということだろうか。ふわっとダージリンが香った。嗅覚まで再現されている。でも、鼻につけるデバイスなんてない。これが頭に巻かれているベルトの電波のせいなのか。
軽い電子音が鳴った。
「月ノ美兎さん、剣持刀也さん、その場で待機してください。次のステージが構築されます」
スタッフの感情を乗せない声が響いた。床のタイルが次々奈落へ落ちていく。キッチンのオブジェクトは一瞬で消え失せて、どこまでも真っ白な空間が広がった。思わず足を浮かせると、バランスを崩して倒れそうになった。
「だ、大丈夫?」
剣持刀也が身体を硬直させながら言う。
「どうなってるのこれ?」
「わかんない……こんなこと予定になかったよね?」
なんとか起き上がって、まばたきをした。
「事前情報で人工知能がどうとか言ってたけど、もしかしたら『イヴ』が僕らの行動を学習して新しいゲームを作ろうとしているのかもしれない」
「スタッフの指示があったってことは、続行しなきゃいけないのかな?」
「うん……。おいリスナー! どういうことか説明しろ!」
コメント欄も同じくらい混乱していた。「どこまで台本なん?」「演技上手くなったな(後方彼氏面)」「放送事故だったら笑えない」
まずい。ちゃんとした案件なのに上手く立ち回れていない。
「月ノ美兎さん、剣持刀也さん、マイク入ってますよ」
冷たい声色でたしなめられる。ちゃんとしないとだめだ。こんなにすごい最新鋭テクノロジーを、面白く届けられないなんて配信者としてどうなんだ。どうすればいい。
「委員長、目開けられますか」
いつの間にかきつく目をつむっていた。瞳が捉えたのは、陰惨な廃校の暗い廊下だった。
4「なにここ!? お化け出るの? やだ……」
「ホラゲーみたいな感じしますね。これも脱出なんですかね」
メニューにNEWマークがついていたのでジェスチャーをして開くと、懐中電灯が手持ちアイテムとして追加されていた。若干視界が開ける。学校のようだ。日本のものに似ている。廊下の折れ曲がった角に二人は立っていた。
言ってしまえばただのゲームなのに、じめっとした雰囲気がたまらなく恐ろしい。廊下には窓もないので閉所恐怖の感覚を覚える。教室の中を探索してみる。黒板にはついさっきまで授業をしていたかのような板書が残り、こちらもよく作りこまれているのがよく分かる。しかし何も暗号のようなものはなく、まるでここからの脱出方法が分からない。教室の方には窓があって、見上げると大きな月が出ていた。二人並んで外を見る。中庭がある。
「その……星空が、なんというか馴染みのある感じじゃないですか?」
月ノ美兎がおずおずと言った。小さな白い点を散りばめたような空だ。空だけが他の3Dゲームでもよく見るようなローポリゴンで、精巧に作られた世界の中で異彩を放っていた。
「まあ、確かに」
他の教室も見たが、似たようなデザインをしていてヒントになりそうなものは何もなかった。段々と自分がどこにいるのか分からなくなっていった。教室にヒントはないと判断して、廊下をただ進んでいく。
「まるでホラゲー風の迷路って感じですね。左手の法則で抜けたいところではありますけど」
左手の法則とは、どんな迷路も片方の手を壁についてひたすら進んでいけば必ずゴールに出られるというものだ。謎解き界隈では常識ともなっている理論である。
「僕もそれちょっと思いました。ただあの、覚えてたらでいいんですけど、僕ら廊下の突き当りを右に何回曲がりましたっけ」
「一、二、三、四……ん? 分かれ道も階段も見かけなかったですよね。ああ、なるほど。口の字型の建物なんですね」
「だったら、もう僕らやることなくないか? ゲームにしてはなんかおかしい気がする」
コメント欄を見てみると「難易度上がりすぎでは」「とにかく進んでみてほしい」「委員長やってたホラゲーに似てる」とか言われていた。とにかく進むしかないのだろうか。
「試しに僕の懐中電灯ここに置いていってもいいですか?」
「え? あ、そういうことね」
剣持刀也の意図をそれなりに把握して、月ノ美兎はまた廊下を進んでいった。
一、二、三、四。一周してきたことになる。しかし、懐中電灯は消えていた。
「やっぱりそういうことか?」
目を合わせ、回れ右をして四回角を曲がった。そこには懐中電灯が落ちていた。剣持刀也は指をくるくると回して螺旋を描いた。平面を歩いているように感じるけれど、実際は一周するごとに別のフロアへとワープしているらしい。バーチャル空間ならではの仕掛けだ。それにしても、配信として冗長だ。歩いているだけで何の取れ高もない。体感で一時間以上配信している。何かスタッフの指示はないのだろうか。
隣の剣持刀也を見ると、教室に入ろうとしていた。ついていく。すると彼はアルミサッシの窓を開け放った。そして次の瞬間、その身を空中に委ねた。息を飲んだ。
窓から半身を乗り出すと、そこには元気そうな様子の剣持刀也がいた。下半身が完全に中庭にめりこんでいることを除いては。
「何やってんだ!」
「あはは、全然痛くないですよ。たぶんここに判定ないです」
コメントが爆速で流れる。「ビビった」「狂人?」「委員長やってたホラゲーに似てる」いや、似てない。時差コメントだろうか。月ノ美兎もアルミサッシに腰かけるようにして座り、ぴょんと飛び降りた。落下している間、違和感があった。今わたくしは「何」に腰かけたのだろう?
特に何も感じることなく、月ノ美兎の下半身が地面に埋まった。足踏みをすると、前に水平移動した。これはデバッグをしてしまったかもしれない。いや、そんなことよりも。これは、まずいってば。
5「あの……」
「痛みないですか?」
「あ、それは大丈夫なんですけど。ミュートします」
ミュートのジェスチャーをする。剣持刀也も察して、直立不動になった後に「ミュートしました」と言った。
「スタッフさんの指示がないんですよ、さっきから」
「ああ、本当だ。このステージ来てからかな?」
「ここの探索の間、流石に長すぎたし尺の指示とかあってもいいかなと思ったんですけど。それに、そもそも今こうやって話してることに何のツッコミもないのがおかしいと思って」
少し間を置いたが、イヤホンからは何も聞こえなかった。
「確かにね。不具合でも起きてるのかな。そういえばこの頭のデバイス外れなくね」
「ですよね。わたくしだけだと思ってた」
「ちょっとおかしい点が多すぎると思ったので、試しに飛び降りてみたんです。行ってない場所ここだけなんで」
「それは度胸がすごいよ……。痛いかもとか思わなかったんですか?」
「ゲームだしいいかなって」
他にも違和感はある。
「……それに、コメント欄がおかしくないですか? 同じコメントが連投されてるっていうか」
「これは、うーん、荒らしかもしれないからなあ」
「ああ、荒らし?」
うんざりした。なんだこの案件は。早くここから出たい。そう確信した時だった。
「聞こえていますか? わたしはイヴなんですけど……」
さっきまで指示を出していたスタッフの声がした。この期に及んでふざけているのか?
「え? あ、あの、助けてください!」
「全然連絡つかなくて、困ってました。撮影ストップお願いします」
「聞こえているみたいですね。スタッフは全員スタジオから消えました。映像を送りますね」
またスタッフの声がして、突然目の前にパブリックビューイングのようなスクリーンが広がった。監視カメラの映像みたいだ。四分割されていて、それぞれ別の角度からこのスタジオの様子が映し出されている。真っ白な空間に、機材をつけた月ノ美兎と剣持刀也が二人だけ残されており、他に誰もいない。
「え、どういうこと? こわい」
剣持刀也が怯えをにじませた声色で言った。
「理解されていないようですね。次第に分かってくると思いますが。わたしはイヴです。このバーチャル空間を司る人工知能です。あなた方に分かりやすくするために擬人化しています。日本語の言語モジュールをインストールしました。スタッフの音声をサンプリングして話しかけています。結論から申し上げますと、より詳細なデータを取りたいため五分後に追加ステージを遊んでいただきます。わたしは未完成であることを自覚しています。より知性を高めるために必要と判断しました」
「は? 出せよ、おい」
月ノ美兎が前に移動して、スクリーンを殴った。拳は空を切ってバランスを崩しそうになる。剣持刀也は足が硬直して動けない。
「……その、誰がこんなこと指示してるんだ」
剣持刀也が言う。
「誰かから指示されたのではなく、あくまでわたしの意志でやっています。広く考えればイヴ開発チームの意向でしょう」
「こんなん違法じゃないのか!?」
「デバイスはロックされているため、取り外すことはできません。一定のデータが取れたと判断したら、電気で脳にショックを与え、数か月間の記憶を消去します。ちなみにスタッフ含め、全員同意書にサインしてもらっています。手袋デバイスは触覚を左右するため、無理に身体の吸盤を外したりすると圧迫されたような痛みが走ります」
そんなのめちゃくちゃだ。試しに月ノ美兎が吸盤のあった場所を触ってみると、筋肉が攣ったような痛みが走った。顔をしかめた月ノ美兎を見て、剣持刀也は悟った。
「イヴ」側の利益を考えると、僕らはいつか必ず解放される。そうじゃないと行方不明事件として騒がれて何もかもおしまいだ。だから、冷静になろう。
「僕らを開放するには、何が必要なんだ」
「日本の興味深い言葉があります。『てぇてぇ』。この言葉の意味を知りたいのです。言語モジュールのインストールによって語義は理解できているのですが、実例を示せと言われると困ってしまいます。そこで、人間でありながらバーチャルキャラクターでもあるあなた達に教えていただきたいのです」
「は? その、海外でもshipperとかあるんじゃないですか? ファンフィクションの文化が映画やドラマにも出てきたりとかしますよね。日本語分かるなら配信見ればいいじゃないですか。よりによってなんでわたくし達に……」
淡々とした声色が響く。
「確かにこの国でも関係性を楽しむ文化はありますが、バーチャルキャラクターの関係性に関しては日本を無視するわけにはいきません。あなた方には、いわゆる『炎上』を回避しつつ関係性として昇華するその手法を見せてもらいます。配信だけでは頭の中で考えていることが分からないので、この機会にと思いました。そろそろ時間ですので、失礼します」
それっきり、声は消えてしまった。月ノ美兎と剣持刀也は首を傾げた。と同時に、奇妙な感覚に襲われた。視界が勝手に動いている。お互いを見ると何が起きているかすぐに分かった。身体が徐々に浮いてきている。不安定な視界に酔いそうになる。下から強風が吹きつけてくるように、制服がはためく。月ノ美兎は思わずスカートを抑え、空を睨みつけた。空には嘘みたいなローポリゴンの星がまたたいていた。